○ 八條村道路元標
○ 稲荷宮
○ 庚申塔
○ 清勝院
○ 潮郷橋
○ 大経寺
○ 伏見稲荷神社
○ 札所碑
○ 馬頭観音
○ 清勝院阿弥陀堂
○ 八條殿社古墳
○ 八條八幡神社
大正8(1919)年に道路法施行令によって道路元標を各市町村に置くことが定められました。
中川堤通りが県道102号平方東京線と交わった先の左脇に「八條村道路元標」があります。
八潮排水機場の北東角にある4基の石塔群です。
左端に享保12(1727)年銘の庚申塔です。
その右は庚申文字塔で道標を兼ねています。文化9(1812)年銘。
正面「庚申塔」(塔の一部が埋もれています)
左 「江戸道」
右 「野道」
鶏羅山清勝院浄楽寺と号します。西新井組中川通四箇領八十八箇所67番です。
(説明板)
「清勝院の文化財」
清勝院は真言宗豊山派の寺院です。寺伝に「開山秀幸」とあり、境内には「長享三年」(1489)と刻まれた秀幸和尚の供養碑が遺ります。江戸時代には寺領15石、末寺7か寺、門徒3か寺を有していました。寺の由緒書には、当初「最勝院」と称していたものを徳川家康の命により「西勝院」に改称したと伝え、明治40年(1907)に末寺の清蔵寺と合寺して「清勝院」となりました。清勝院では、県・市の指定を受けた文化財のほか、寺院に関する文書なども多く所蔵しています。
令和2年月 八潮市教育委員会
市指定有形文化財 清勝院山門
市指定有形文化財 木造不動明王立像
県指定有形文化財 絹本着色虚空蔵菩薩像
市指定有形文化財 絹本着色理趣会曼荼羅図
市指定有形文化財 紙本着色不動明王二童子像」
<山門/参道>
かつては朱塗りで公用でのみ使用されていたため「赤門」「開かずの門」などとも呼ばれていました。
<御修業大師像>
平成21(2009)年の建立です。
寛文2(1662)年銘の勢至菩薩像を主尊とする庚申塔です。
<十九夜塔>
元禄13(1700)年銘の十九夜塔です。
<石燈籠>
元禄12(1699)年銘の古い石燈籠です。
<子安水掛地蔵>
「子安・水掛地蔵尊建立発願之書」
<本坊/浄楽殿>
<弘法大師堂>
<本堂>
無量山浄光院大経寺と号します。武蔵国三十三観音の番外札所です。
<山門>
(説明板)
「大経寺 所在地 八潮市大字八條三八七七
大経寺は、浄土宗の寺院で、天正十四年(一五八六)に暁翁上人が開山したと伝えられる。上人は、京都の知恩院にて修学、下向の途中八條村に立ち寄ったところ、付近に浄土宗の寺院がなかったため一寺を開いた。そのおり開基者となったのが中島浄金であったという。慶安元年(一六四八)には三代将軍家光より朱印地七石が与えられている。
本堂は、桁行五間(九メートル)、梁行七間(十二・六メートル)の宝形造りで、本尊に阿弥陀如来座像が安置されている。内外陣は天明五年(一七八五)に改修されており、山門は文化十三年(一八一六)、観音堂は文久元年(一八六一)の再建である。なお、観音堂には、円空上人が彫った千手観音像が安置されている。
昭和六十年三月 埼玉県 八潮市」
<観音堂>
(説明板)
「県指定有形文化財 円空作木造千手観音菩薩立像
指定 平成6年月16日
所在地 八潮市大字八條3877番地(大経寺)
大経寺観音堂には、円空作の木造千手観音立像が安置されており、武蔵国三十三観音霊場の番外のひとつにもなっています。
円空は寛永9年(16332)に美濃国(現岐阜県)に生まれた江戸前期の修行僧のひとりで、生涯12万体の造像祈願をして全国を行脚したと伝えられています。関東にも幾度か足を運んでおり、埼玉県内では県東部を中心に多くの円空仏が残されています。八潮市内では、南川崎の専稱寺にも円空作の木造愛染明王坐像(市指定文化財)が安置されています。
この像は頭部に化仏(その仏の本地仏)と8体の仏頭を頂き、大手4本は体の前で合掌し宝珠を持っています。軽く開いて歯をのぞかせる口元は、円空仏に見られる独特な表現の一つです。部材は、頭頂から天冠台まで、地髪から腹部まで、腹部から膝まで、膝から地付までの4つで構成されており、上部2材は杉材、下部2材は欅材の臼を転用して縦割りにしたものを積み上げています。円空仏は一木造りがほとんどのため大きな像はあまりありませんが、この像は像高2m43cmと、埼玉県下で最大の大きさを誇り、部分彫りや転用材を用いるなど、円空の特異な造形思想が表現されています。
子年と午年の6年に1度、4月16日ごろに御開帳が予定されています。
平成31年3月 八潮市教育委員会」
<地蔵堂>
<普門品供養塔>
<六地蔵>
<三界萬霊塔/水子地蔵尊>
<早川君遺愛碑>
文化6(1809)年の建立です。
代官早川八郎左衛門の業績が刻まれています。撰文並びに書は、久保筑水です。
<大東亜戦歿者之墓>
<大師堂>
<本殿>
路傍にある石標2基です。
右は「八十八」とあるので、弘法大師霊場の札所碑でしょう。
八條八幡通りにある「馬頭観世音」です。
明治40(1907)年の建立です。
西新井組中川通四箇領八十八ヶ所霊場66番札所です。
元は清蔵院でしたが清勝院に合寺となっています。
(説明板)
「市指定記念物・史跡 八條殿社古墳
指定 昭和四十六年三月十六日
所在地 八潮市大字八條四〇六番地
市指定有形文化財 紙本着色八條殿社神像
指定 昭和四十六年三月十六日
所在地 八潮市大字八條四〇二番地
平安末から南北朝期ころまでの市域は、伊勢神宮領「大河戸御厨八條郷」に属しており、この八條郷域が、ほぼ近世の八條領域とみられている。
八條殿社は、八條領三五か村の郷社とされ、八條氏を祭るといわれる。八條氏については、鎌倉時代に八條左大臣良輔や地頭八條五郎光平、室町時代の八條(上杉)房繁などの諸説がある。
八條殿社古墳
八條殿社跡は、『新編武蔵風土記稿』に「八條殿社 塚上ニ社ヲ建。内ニ神体トテ古碑ニ基ヲ置。一ハ弘安七年。一ハ応安四年五月廿七日宗源禪門ト彫レリ。(中略)サレト塚上ヲ平ゲシ所ヨリ、石槨ノ著シサマ、古墳ナルコト知ラル。」と、古墳であると記されている。なお、弘安七年(一二八四)の「古碑」(弘安七年銘板石塔婆市指定有形文化財)は現在八條八幡神社に祭祀されている。
明治四十二年に八條殿社が廃社されたとき、出土品・祭祀物が流出、たびたびの発掘等で八條殿社は、かつての面影をとどめていないが、八潮市内で祐一古墳の伝承が残る地である。
紙本着色八條殿社神像
八條殿社の祭神ともいわれる八條近江守房繁は、馬術を得意とし、八條流馬術の流派をおこした。その馬上姿の八條房繁を描いた神像は、室町時代ころの作と推定され、旧社家の八條新井家に伝えられている。
平成十年十一月 八潮市教育委員会」
八條八幡神社は、宝徳元(1449)年の勧請といわれ、八幡・久伊豆・氷川の三神の合社です。
社殿には、大日本帝国憲法の発布式と、帝国議会の様子が浮き彫りにされています。
(説明板)
「八潮市八條八幡神社社叢ふるさとの森
昭和五十九年三月二十九日指定
身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
この神社は、ハ潮市の北、利根川水系中川右岸堤防の河川敷内に位置しています。宝徳元年今から五三五年前に建立され、市内では一番古い神社です。宝物としては、市の指定文化財になっている「弘安七年の青石塔婆」があります。
境内には、社を取り囲むように大木が密生し、地域の人々の散策の場としてもなじみ深い「鎭守の森」となっています。
林相としては、主に、ケヤキ、イチョウ、シラカシ、クスノキなどで構成されています。
昭和五十九年十二月 埼玉県」
(碑文)
「奉賛の記
この八條の地は、悠久の時を重ねた大自然の偉大なる働きにより利根川(中川)に沿って自然堤防として造り固められ、東国の武蔵野の豊かな大地として形成されたものである。この土地もやがて、大化の改新の制度のもとに、条里制の開拓が施され「八條」という地名のもとに今日に至っている。この八修の里に、常陸の国「下妻」に通じる古道下妻街道が南北に通っている。この下妻街道の存在は、人の往来や物流を通じての経済的便益をもたらしたばかりでなく、文化の伝播や交流に大きな影響をもたらしている。時代も、平安、鎌倉と進み、政治・経済・文化の流れを受けて、室町の時代を迎え、その中期、後花園天皇の時代宝?元年(一四四九年)山城国綴喜郡男山(京都)石清水八幡宮より八幡大神を、武州国大宮村(大宮市)水川神社より水川大明神を、(岩槻市)久伊豆神社より久伊豆大明神を勧請し、ご祭祀したのが八幡神社の始まりである。平成十一年という年は宝徳元年より数えて五五〇年になる。総代をはじめ氏子・崇敬者のご奉賛により、この節目ある年を記念すべき年としてお祝いすると共にご神徳の益々のあらたかを祈念して五五〇年祭を執り行うこととなったものである。また、記念事業として灯籠・御手水舎の建立及び境内地を整備しご神徳の高揚を奉賛し、この土地の永遠なる弥栄を願うものである。
平成十一年十月十五日
御鎮座五百五十周年事業建設委員」
<弁財天社>
参道の一番手前左手の「弁財天社」です。
<手水舎>
<日露従記念碑>
明治40(1907)年の建立です。
深井鑑一郎撰並書。
<入谷稲荷/職大神>
<社殿> 国有形文化財
明治24(1891)年に再建された本殿は、国登録有形文化財に指定されています。
明治22(1889)年に公布された大日本帝国憲法の発布式と帝国議会の様子が彫刻されています。