○ 鈴木新田と穴守鉱泉
〇 羽田穴守海水浴場の開場
〇 羽田競馬場
○ 天然温泉
泉天空の湯 羽田空港
<鈴木新田>
江戸後期、鈴木弥五右衛門が羽田浦浅瀬の「要島」を中心として開墾し、鈴木新田と呼ばれるようになりました。
羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の三つの町が生まれました。
海岸に堤防を巡らし、「要島」の堤防の上に新田開発の守護神として「穴守稲荷神社」を祀りました。
「穴守」という社名から、遊女からの信仰も篤かったといいます。
また、競馬・競輪・宝くじなどのファンからの信仰も集めるようになりました。
GHQは昭和20(1945)年9月21日、三町の3000人に強制立ち退きを命じ、穴守稲荷神社の大鳥居を除きすべての建物は壊されました。
昭和27(1952)年7月に日本に返還され、東京国際空港として再出発しました。
(羽田の大鳥居の脇に建つ「鈴木弥五右衛門」の碑)
<穴守鉱泉>
明治27(1894)年 、和泉茂八が穴守稲荷神社の境内で、ナトリウム冷鉱泉を発見し、泉館という温泉旅館を起こしました。
以後、鉱泉宿や料理屋、芸妓置屋などが軒を並べていきました。
(「旧三町顕彰の碑」の解説板)
「行楽地としての発展
現在海老取川の西側にある穴守稲荷神社は、かつては海老取川の東側、羽田穴守町にありました。江戸時代、風波から田畑を守るため、小さな祠を建てたことが起源と言われています。
1894(明治27)年には神社近隣で鉱泉が発見され、鉱泉宿や料理屋、芸妓置屋などが軒を並べていきました。
このころ、京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄株式会社)が参詣客の足の便を図ることを目的として穴守線を開業しました。それに伴い、明治時代後半から昭和初期にかけて、羽田穴守町一帯を中心に海水浴場や浄化海水プール、運動場、競馬場など、一大行楽地が形成されていきました。」
「一日の行楽」(田山花袋 博文館 大正7年)
田山花袋が穴守鉱泉について、記載しています。
「川崎大師と穴守稲荷(抜粋)
その他穴森には、鉱泉をわかして客を待つ旅館兼料理屋が二二軒ある。中で、羽田館と言ふのが一番大きい。つれ込み宿としてもきこえてゐる。」
「武蔵國荏原郡羽田穴守神社全圖」(Wikipedia 明治34年)
本社の横に、「鉱泉場」の大きな幟が三本建っています。
手前から「泉館」「羽田館」「要館」「西本」と見えます。
羽田館の手前には「水行場」が見えます。
また、「鉱泉倶楽部」があります、日帰り館でしょうか?
「穴守神社」(最新東京名所写真帖 小島又市 明治42年)
写真下の解説文を見ると、とても賑わっていた様子が伺えます。
「荏原郡羽田町鈴木新田にあり 近時の建社たりと雖も霊験灼々たるを以て〜
此地海魚に富み加ふるに鉱泉の温浴あり 一夜の族眠を貪ぼるに足れり〜」
「(蒲田区)穴守稲荷」(絵葉書 都立図書館蔵)
<鴨場>
鈴木新田には、黒田侯爵家の鴨場があり、来賓客が来遊した時に鴨が振舞われました。
また鉱泉旅館要館も鴨場を所有し、宿泊客に鴨料理を提供していました。
昭和10年8月黒田伯爵池鴨場
<京浜電気鉄道>
京浜電気鉄道(現:京急)は、穴守稲荷神社への参拝者を運ぶため、明治35(1902)年に蒲田〜穴守間を開業しました。
大正2(1913)年には神社の前まで延伸され、門前は一大歓楽街として栄えました。
(旧三町復元タイルのタイル写真、大鳥居掲示抜粋、旧三町の解説板抜粋 )
明治42(1909)年、鈴木新田に京浜電気鉄道により羽田運動場が開設されました。
明治44(1911)年にはオリンピック予選会が行われています。
短距離走の三島弥彦とマラソンの金栗四三が選ばれています。
明治44(1911)年には京浜電気鉄道により羽田穴守海水浴場が開場しました。
7月9日の開場式には、大隈重信、渋沢栄一、下田歌子(実践学園創設者)などの来賓を迎えました。
来賓の大隈重信伯爵が見えます。
この海水浴場は干潮時には利用できなかったため、昭和7(1932)年7月に「浄化海水プール」が作られました。
このプールは長さ70m、幅30mの大きさで、当時、東洋一と言われた大プールでした。
海の家には「温浴場」が設けられていました。
「羽田穴守海水浴場」の案内パンフ(昭和8年5月)
昭和11(1936)年頃の航空写真
「羽田運動場」「羽田海水浴場」「羽田穴守海の家」「浄化海水プール」が見えます。
昭和13(1938)年からの東京飛行場の拡張工事に伴い、昭和13(1938)年2月に京浜電気鉄道は運動場とプールを逓信省に売却し、
海水浴場の規模は縮小されることとなりました。
昭和17(1942)年の戦時中に海水浴場は営業中止となりました。
「1945年頃の地形」
※上記の出典を示していない各写真は、大鳥居での掲示からの抜粋です。
従来の羽田競馬場(大田区東粕谷)では、地主たちによる地代の大幅増の求めがあり、またコース拡張のため、
現在の羽田空港第3ターミナル付近を埋め立てて移転することになりました。
埋め立て、盛り土といった大規模な工事で新たな競馬場が建設され(鈴木新田御台場耕地)、
昭和7(1932)年から競馬が開催されました。
この地「鈴木新田御台場耕地」はその住所地が示すように、かつて砂州に羽田台場が築かれた地でした。
羽田台場は、天保14(1843)年に、異国船からの脅威に対抗するために築かれた砲台場でしたが、1年で廃されました。
羽田競馬場は、地方競馬としては全国最高の売上を誇りましたが、昭和12(1937)年秋の開催を最後に閉場となりました。
羽田競馬場の痕跡は残っていませんが、大井競馬のレース名「羽田杯」としてその存在が示されています。
【源泉名】羽田空港 泉天空温泉
【泉 質】 含よう素ーナトリウム塩化物強温泉(高張性・弱アルカリ性)
【入浴料】4800円
塩辛い高張泉ですね、穴守鉱泉も塩辛かったようです。