○ 旧三町顕彰の碑
○ 旧三町復元タイル
○ 羽田イノベーションシティ(HICity)
旧三町顕彰の碑が建立され、碑の周りに解説板が設置されています。
<顕彰碑1面>
「旧三町顕彰の碑」
3つの町の名前(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)が記されています。
解説板
「旧三町(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)の成り立ち」
海老取川を超えた東側は、江戸時代は鈴木新田と呼ばれ、
昭和7(1932)年に、羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の3つの町名前が誕生しました。
明治27(1894)年には羽田穴守町にあった穴守稲荷神社近隣で鉱泉が発見され、京浜電気鉄道が参詣客の便を図るため穴守線を開業しました。
旧三町一帯は一大行楽地として賑わっていきました。
<顕彰碑2面>
「きみといたふるさとの匂い」
旧三町での生活・景色などの想いが表現されています。
解説板
「戦争と旧三町(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)の強制退去」
昭和6(1933)年に開港した東京飛行場が拡張されることになり、羽田穴守町の運動場やプールが廃止されました。羽田御台場の競馬場も廃止されました。
戦争が激化する中、空襲により旧三町の大部分が焼けました。ポツダム宣言受諾、東京飛行場は連合国軍によって接収され、拡張されることとなり、
海老取川以東の住民3000人余の人々に48時間以内の退去命令が出されました。
<顕彰碑3面>
「海と 空と 祈り 羽ばたき」
平和と、羽田のまちと新しいまち(跡地)が発展し続けることが表現されています。
(解説板)
「羽田空港の歴史と発展
日本飛行学校の設立と東京飛行場の開場
この地に空港ができることになったのは、1916年(大正5)に羽田に日本飛行学校と飛行製作所が設立されたことがきっかけでした。
1931(昭和6)年には、東京飛行場が開港され、民間飛行場として国内・大陸定期便、遊覧機などが飛び交うようになりました。しかし、1941(昭和16)年に太平洋戦争が開戦されると、東京飛行場は軍の基地としての役割も増していきました。
戦後の空港接収と返還
東京飛行場は、戦後、連合国軍によって接収され、ハネダ・エアベースが建設されました。
1952(昭和27)年に日本側に一部返還され、「東京国際空港」(通称、羽田空港)となりました。当時はまだ米軍が空港を一部使用することもありましたが、1958(昭和33)年に全部返還となりました。
羽田空港は、騒音問題や発着容量の解消のため、数次にわたる沖合展開事業の中で拡張を続け、進化してきました。現在は4本の滑降路を有し、国際線も再開されるなど、日本を支え、日本と世界をつなぐ大切な役割を果たしています。 大田区」
旧三町の地図を記したタイル(平板ブロック)が設置されています。
昭和11年頃の国土地理院の空中写真を使用し作成したタイルです。
京浜電気鉄道、穴守神社や海水浴場、浄化海水プール、競馬場などがあり、
旧三町一帯が行楽地として賑わいを見せていたことがうかがえます。
羽田イノベーションシティ内1階のインフォメーションセンターに、
「大田区歴史資料コーナー」が設置されています。