筑波山の女体神社を信仰していた下総豊田城の城主豊田氏が、落城後柿木を安住の地と定め、筑波山に向けて北向きに建てられたといわれる神社です。
豊田三郎の文学碑もあります。
(説明板)
「女体神社 所在地 草加市柿木町
当社は、伊弉冉尊を祀り、柿木の鎮守として人々に厚く敬われてきた。
柿木は、中川沿いに下妻街道があり、草加市内にあって最も古くから開発された土地といわれ、伝承では、この土地の開発の祖を豊田氏と伝えている。
豊田氏は、平将門の伯父国香を祖とし、下総国豊田荘の地頭を務め、のち石毛に本城を構えた。しかし、天正三年(一五七五)城主豊田治親が恒例の雷電神社参の時、下妻の多賀谷氏の侵略にあい、治親は討たれ本城も陥ちてしまった。
残された婦人と遺子は急変により石毛を捨て縁をたよってここ柿木まで落ちのび、この地を永世の地と定めたというのである。
豊田氏は信仰心厚く、殊に筑波山女体神社を崇拝していた。それによって分霊をこの地に勧請し創建されたのが当社であるといい、社殿も北方、筑波山に向けて建てられている。
昭和六十一年三月 草加市教育委員会」
<改修記念碑>
昭和54(1979)年に社殿の大改修が行われました。
(碑文)
「改修記念碑
柿木町は古利根川の自然堤防上の自然堤防上の微高地に発達した歴史ある村である。出土した八角宝幢形経筒や応永時代の青石塔婆に依ってもその一端がうかがえる。当地には社寺建築、野佛等の文化遺産がいまでも数多く残されており、地域の人々にとってかけがえのない財産と言えよう。此の鎮守女體神社は其の代表的なものである。文化文政年間の新編武蔵風土記稿ではすでに女體神社が紹介されて居る。(以下略)」
<豊田三郎文学碑>
草加市内の文学愛好者によって昭和58(1983)年に建立された豊田三郎文学碑です。
豊田三郎(明治40(1907)年2月12日〜昭和34(1959)年11月18日)は、小説家で本姓は森村です。出身が柿木(当地)なので、豊田氏の伝承を想起します。
妻は歌人の森村浅香、長女は作家の森村桂です。
(碑文)
「午後の太陽がぎらぎら照りつける街道から畠をつたはつて彼等は河原へ降りた。青い草原には風が爽やかに吹いてゐた。白雲が葛飾の森の上に城のやうにわだかまり、静かに移動しつづけた。
河はゆるやかに彎曲しながら、少し泥色を帯びて流れた。
「僕はこの河がすきなんだよ。流れをみてゐると倦きないものだな。自然の生命が動き、リズムを立ててゐるやうに見えるんだ。」
(「青年時代」より)」
<稲荷神社/小松神社・八幡神社>
<水神社>
<社殿>
「音店河岸」は、江戸時代半ばから明治にかけて栄えました。
標柱「草加八景 音店河岸と下妻街道」が建てられています。
工事中で河岸には近寄れません。
中川通りから右手に下がっていく道が「下妻街道」で、標石が建てられています。
行き止まりとなります。
中川通りに戻り、越谷市(旧千疋村)に入ると東町くぬぎ通りとなります。
中川には「新中川水管橋」が架かっています(こちらで記載)。