新吉原の遊女屋が火災に遭って全焼した場合、
期間を定めて新吉原以外の場所で営業することを仮宅といいます。
楼主はいつ火事が起きても困らないよう、楼閣一軒分の材木を深川の木場に確保していて、
仮宅営業に入ると、建物の普請にとりかかります。
仮宅営業は繁盛し、遊郭での営業より経費がかからず大きな利益を得ました。
まさに焼け太りです。
材木屋や大工も、新吉原の再建で大きな利益を得ました。
「新吉原の火事」
焼け残りの妓楼があれば、仮宅は許可されず、全焼すると仮宅で営業することが許可されました。
そのため新吉原の火事では、火消は出動せず消火をしませんでした。
その結果、新吉原は炎上すれば、全焼するのがほとんどでした。
新吉原の火事の頻度は種々ありはっきりしていませんが、
「新吉原史考」(台東区役所編 1960年)によれば、幕末までに21回炎上、うち19回が全焼しました。
(こちらは吉原今昔図より抜粋)
「天保六年新吉原仮宅場所一覧」(歌川国直 台東区立図書館蔵)
天保6(1835)年の火災により新吉原遊廓は全焼し、本図は、花川戸町、山之宿町、山谷堀の仮宅の案内図です。
屋根の上に妓楼の規模が3つの記号で示され、楼主の名が記されています。
二天門(江戸時代は東照宮の随身門)から浅草神社へ向かいます。
<狛犬>
奉納:天保七丙年申三月(1836年)「田町文三郎」「山川町大工虎五郎」
石工:「象潟町大岩」
奉納者の所在地の「田町」(田地だった)と「山川町」(南に待乳山、北に山谷掘あるを以て此名あり)は、
両町とも山谷堀に面し、吉原の発展とともに形成された町です。
(田町については、こちらで解説済)
新吉原では火事が頻繁に起きたため、大工はその再建で大きな利益を得ていました。
立派な狛犬奉納の前年にも新吉原は全焼しています。
この狛犬より大きな、そっくりの狛犬がやっちゃ場の河原稲荷神社にいます。