森鴎外は少年時代この地域で過ごしており、弘福寺は、鳥取藩池田家や津和野藩亀井家の菩提寺で、
津和野出身だった森鴎外も、没後弘福寺に葬られました。
しかし、関東大震災後、昭和2年10月三鷹禅林寺へ改葬されています。
また、勝海舟は、天保12(1841)年、弘福寺にて、座禅を修めています。
寺号標が亀趺に乗っています。
大雄寶殿(本堂)は、墨田区指定有形文化財です。
<淡島寒月旧居跡>
(説明板)
「淡島寒月旧居跡
父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島店」を経営する実業家で大地主であった。また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあった。明治17(1884)年、向島の弘福寺地内に隠居所を建てて住んだ。
息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿。実体験をベースにした小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した。
明治26(1893) 年頃、父の使っていた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居。「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入る。夏目漱石の「吾輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。
収集家としても有名で、梵雲庵には三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料があったが、関東大震災ですべて焼失されてしまった。」
<翁媼尊>
(説明板)
「翁媼尊
この石像は、風外禅師(名は慧薫、寛永年間の人)が相州真鶴の山中の洞穴に於いて求道して居た折、禅師が父母に考義を尽くせぬをいたみ、同地の岩石を以て自らが刻んだ父母の像です。禅師は之を洞内に安置し恰も父母在すが如く日夜考養を怠らなかったといわれております。小田原城主當山開基稲葉正則公が、その石像の温容と禅師の至情に感じ、その放置されるを憐れみ城内に移し供養していましたが、たまたま同公移封の為小田原を去るに當り、當寺に預けて祀らしめたものです。
尚、古くよりこの石像は咳の爺婆尊と称せられ、ロ中に病のある者は翁に、咳を病む者は婆に祈願し、全快を得た折には、煎り豆と番茶を添えてその礼に供養するという風習が伝わって居ります。」
<七福詠碑>
「弘福寺布袋尊
何々や袋の中の年の卒 七福詠」
<池田斉稷墓碑>
鳥取藩8代藩主池田斉稷の亀趺の墓碑です。
関東大震災を機に昭和5(1930)年、鳥取藩主池田家墓所に改葬されています。
<建部綾足墓所標柱>
「寒葉齋建部綾足先生墓所」
<建部綾足墓標>
下部に自画像が刻んであります。
「与しのの山にて与面留
波と乃美 み不祢能山乃山桜
あや太里」
<池田冠山墓>
亀趺に乗る墓標です。
「停雲院殿冠山兀叟大居士之墓」と刻まれています。
(墨田区登録史跡)
池田冠山墓 所在地 墨田区向島五丁目三番二号
所有者 宗教法人 弘福寺
令和二年一月 墨田区教育委員会
<越後与板藩 井伊家墓所>
<未確認>