Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 出羽国久保田(秋田)藩/佐竹氏

  佐竹氏は、新羅三郎義光(兄が八幡太郎義家)の嫡流で、義光の孫の昌義が
  常陸国佐竹郷(現茨城県常陸太田市)に居住し佐竹氏を名乗ったのにはじまります。

  上屋敷は御徒町にあり、佐竹商店街にその名が残ります。菩提寺は橋場にあった総泉寺です。
  大鷲神社は、佐竹氏の祖先である新羅三郎義光が兄の八幡太郎義家を助けるために
  奥州に向かう途中戦勝祈願し、凱旋の折には社殿を改築、「金の前立の兜」及び武具を奉献したと伝わります。
  本殿の改築を義光の子孫、佐竹氏が行っています(明治8年に竣工)。神社の神紋も佐竹氏と同じ「五本骨扇に月丸」です。

  ○ 佐竹家上屋敷 (三味線堀)
  ○ 佐竹商店街/三味線堀跡
  ○ 総泉寺    (菩提寺)    別頁
  ○ 総泉寺    (板橋区)    別頁
  ○ 佐竹家上屋敷 (神田旭町)   別頁
  ○ 佐竹稲荷神社 (旧上屋敷屋敷神)別頁
  ○ 佐竹稲荷神社 (抱屋敷屋敷神)
  ○ 正洞院    (佐竹義宣の正室正洞院)
  〇 西光寺    (佐竹義宣が開基)別頁
  ○ 大鷲神社   (佐竹氏改築)  別頁
  ○ 正覚院    (大鷲神社別当) 別頁
  ○ 不動院(矢納弁天)(源義光が矢を奉納)別頁
  ○ 道灌山    (佐竹家抱屋敷跡)別頁
  ○ 浩養園跡   (佐竹家下屋敷跡)別頁


佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡

(説明板)
「佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡   台東区台東二・三・四丁目付近
 江戸時代、この付近一帯は、出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷があった地である。藩主は佐竹氏で、二十万余石を領有した、東北地方屈指の外様大名であった。佐竹家上屋敷の当地開設年代は、『武鑑』からみて、元禄二年(一六八九)もしくは翌三年と考えられる。屋敷地は広大で、現在の台東三・四丁目東半分にわたっていた。
 佐竹家八代藩主佐竹義敦(号は曙山)は、日本初の本格的西洋医学書の翻訳書『解体新書』(安永三年[一七七四]刊)付図を描いた藩士小田野直武らとともに、洋風画の一派「秋田蘭画」の基礎を築いた。また天明年間(一七八一−八九)の狂歌師手柄岡持も藩士であり、当時の文化人がここを中心に活躍していたことがうかがわれる。
 明治になって佐竹家上屋敷や近隣の武家屋敷が撤去され、当地は野原となり、俗に佐竹っ原と呼ばれた。ここは見世物小屋が集中して賑わったが、明治時代半ばから民家が立ち並び、商店街として発展した。現在、「佐竹」の名は、「佐竹商店街」として継承されている。
  平成八年三月 台東区教育委員会」

   

三味線堀跡> 台東区児島1-5

(説明板)
「三味線堀跡  台東区小島一丁目五番
 現在の清洲橋通りに面して、小島一丁目の西端に南北に広がっていた。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋三丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
 不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
 なお天明三年(1783)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に三階建ての高殿が建設された。大田南畝が、これにちなんだ狂歌をのこしている。
  三階に三味線堀を三下り二上り見れどあきたらぬ景
 江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。
  平成十五年三月 台東区教育委員会」

   

「江戸名所百人美女 三味せんぼり」(豊国・国久 安政5(1859)年)

 こま絵に「三味せんぼり」が描かれています。

   


佐竹商店街 台東区台東3丁目・4丁目 HP

 垂れ幕の掲示です。

 「樋口一葉は下谷御徒町に住んでいたことがある」
  (明治十四年から三年、下谷御徒町(現・台東)に在住)

 「佐竹商店街は日本で2番目に古い商店街です」

 「のどの薬龍角散は秋田佐竹家の家伝薬だった」

 「江戸時代に御徒町で変化朝顔が盛んに栽培されていました」
  (注:御徒町は、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である
   御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来します。)

 「佐竹に明治時代見世物の大仏があった」
  (※高村光雲作の大仏がありました。)

 「夏目漱石は台東区で小学生時代を過ごした」
  (※佐竹近くの寿町に住み戸田学校に通いました。蔵前小学校に「漱石学び始めの碑」があります。)

 「日本本で最初の洋風画を描いたのは秋田・佐竹家の藩主佐竹義敦です」

     

     

     

     

     

      

<お休み処>

     

    

    

  

秋葉神社 台東区台東4-21-23

 佐竹秋葉神社と通称されています。
 秋葉神社は、秋田佐竹藩上屋敷跡地に明治22(1989)年4月秋葉神社の分霊を勧請して創建したといいます。
 昭和5(1930)年に社殿を造営し火伏せの神として崇められています。

     

    


○おかず横丁

   


佐竹稲荷神社(佐竹抱屋敷跡) 足立区梅田6-28-7

 佐竹稲荷神社(いぼ稲荷)は、秋田藩主佐竹家の抱屋敷の屋敷神として(邸内社)創建されました。
 「佐竹抱屋敷跡」石標柱があります(足立区史跡)。
 抱屋敷とは幕府から拝領された屋敷ではなく、秋田藩が私的に購入したものです。

(説明板)
「佐竹稲荷神社
 江戸時代、この辺りは秋田藩主佐竹家が所有した広さ約五千二百坪の抱屋敷地(私邸)であった。延宝八年(一六八〇)には存在し、享保三年(一七一八)に八代将軍吉宗から取り壊しを命じられるまでは、構堀をめぐらす立派な屋敷だった。その威容は、佐竹氏から讓渡された資料を保存している一般財団法人千秋文庫(千代田区)が所蔵する「梅田御屋敷??」に描かれている。
 当社は、この屋敷地の北東隅に位置し、屋敷神として祀られ、「佐竹稲荷」と呼ばれている。現在、屋敷の面影を伝える唯一の遺構である。神田(千代田区) にあった佐竹氏の上屋敷跡地にも佐竹稲荷神社が祀られている。
 当初の社殿は、寛政九年(一七九七)に建立された。古くから近隣の人々の信仰を集め、寛政十年の幟なども保存されている。?年、二月の初午の祭礼には、参詣者も多く、かつて当社を信仰し、他所へ移り住んだ信者からも献納物が寄せられている。
 屋數の東側を日光道中・奥州道中が通っており、参勤交代などでここを通って上屋敷に入った。また、江戸で火災が起こると、秋田藩関係者の避難所としても利用された。
 現在は、当屋敷を受け継いだ三谷家が、神社をお守りしている。
 昭和五十七年(一九八二)十二月、佐竹抱屋敷跡とLて足立区登録記念物となった。
  令和ニ年三月 東京都足立区教育委員会」

     

     

     


正洞院 台東区下谷2-6-2

 佐竹義宣の正室正洞院は、下野国烏山城主の那須資胤の三女で、
 天正13(1585)年、19歳で16歳の佐竹義宣と政略結婚、天正19(1591)年4月に自害します。

 天正19年2月に「南方三十三館謀殺事件」が起きています。
 これは常陸国の南方33館の諸氏を太田城に招き一斉に誅殺した事件です。

 佐竹義宣は水戸城を改修し居城を移しますが(天正19年3月)、正洞院は太田城に残されました。
 実家は前年に改易となっています。佐竹義宣が自害に追い込んだと考えるのが自然ですかね。

 実家の烏山城主の那須資晴は、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、改易となります(天正18(1590)年)。
 家名存続は許されます。

 佐竹義宣は正洞院のために、江戸と秋田に正洞院を建立しました(秋田の正洞院は明治に入り廃寺)。

「江戸切絵図」

 江戸切絵図に記されている「正洞院」です。
 近くには「小野照崎社」や「鬼子母神」等が見えます。

  

<五本骨扇に月丸>

 東京の正洞院では「五本骨扇に月丸」の紋をいたるところにみることができます。

     

     

<正洞院墓碑>

 墓域に入ってすぐに墓碑があります。

 「開基正洞院殿明宝珠光大禅定尼
  天正19年4月18日」
 「文化10年7月造立」の記銘があります。

 天正19(1591)年4月18日に自害ということですね。
 文化10(1813)年に後世の和尚が造立、歴代和尚名と没年月日が刻まれています。

    

<多少庵秋瓜の句碑>

 江戸時代中期の俳人、多少庵秋瓜の句碑があります。

   

<多少庵秋瓜の墓>

 多少庵秋瓜の墓は、墓地ではなく句碑の近くにあります。

   

<江戸城御前将棋指衆・和田印哲の墓>

 将棋の駒の形をした墓は、江戸城御前将棋指衆・和田印哲の墓です。
 戒名「全聖院角翁哲龍居士」。正洞院による再建です。

     


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