○ 狭山山不動寺
西武鉄道は、増上寺の南北両側にあった徳川家の墓地を1950年から1954年までに分けて徳川宗家(第17代当主徳川家正)から購入します。
1960年、台徳院霊廟勅額門、御成門、丁子門はユネスコ村に移築(現在の狭山山不動寺:開基堤義明氏)、
灯篭1000基は西武球場付近に移転、その後、希望する寺院に移築されていきました。
徳川家南霊廟にはザ・プリンス パークタワー東京が、徳川家北霊廟には東京プリンスホテルが建っています。
「この銀杏の大木は、江戸城を築いた太田道灌が城砦を構えていた城山城跡にあったものである。」
日比谷公園の首かけ銀杏が450m移すのに25日かかったのが想起されますが、東京から所沢への移植で、よく定着したなと思います。
城のあった山は一般的に城山と呼ばれるので、説明文の内容ではどこにあったのか不明です。候補地多すぎてわかりません。
・城山跡 中野区中野 豊島氏と戦った道灌砦跡とも言われています。
・愛宕山城/城山 練馬区上石神井(早稲田高等学院)
豊島氏の石神井城を攻める際に道灌が築城。
・番神山城や飯倉城山
・道灌山 城山とも呼ばれる。
・西久保城山(港区虎ノ門4-3辺り)
(ホテルオークラだったかの工事かなんかで、道路脇の銀杏の大木を移植した記載をどこかで見たような気がします。)
(説明板)
「御神木
この銀杏の大木は江戸城を築いた太田道灌が城砦を構えていた城山城趾にあったものである。
徳川時代から今日まで人々から神木として崇敬され関東大震災の時は大勢の人がこの大樹の下に寄って難を免がれ神験のあらたかさを喧伝されたものです。その後区画整理の際樹齢五百年のこの大木を伐るに忍びず、当境内に移植して造化の神秘を偲ぶよすがとし、社会科の教材として保存することにしたものです。
昭和五十年四月二十六日 天台宗別格本山狭山山不動寺執事」
<勅額門>
台徳院(二代将軍徳川秀忠)霊廟勅額門です。
寛永9(1632)年、家光建立。国重文です。
第108代後水尾天皇の勅額です。
(説明板)
「勅額門(重要文化財)
元、東京芝の徳川家台徳院一品大相国公(二代将軍秀忠公)の御廟に建立されていたものである。
寛永九年(一六三二年)孝養報恩の志をのべたいと、三代将軍従一位左大臣徳川家光公が着手し、建立したもので、現在国指定の重要文化財となっている。
構造型式 四脚門 銅版葺 切妻造り
昭和五十年四月二十六日 天台宗別格本山狭山山不動寺」
<御成門>
台徳院(二代将軍徳川秀忠)霊廟御成門。
寛永9(1632)年、家光建立。重文。
「天人門」の別称があり、飛天の彫刻があります。
(説明板)
「御成門(重要文化財)
元、東京芝の徳川家台徳院(二代将軍秀忠)の御廟に建立されていたものである。
飛天の彫刻や絵画が多く描かれており朝鮮渡来の天人門といわれている。
寛永九年(一六三二)三代将軍従一位左大臣徳川家光公が着手建立し格天井の中央に丸い鏡天井が設けられ珍しい特徴を伝えている。
現在国指定の重要文化財となっている。
構造形式 単層門 銅瓦葺 切妻造り
昭和五十年四月二十六日 天台宗別格本山狭山山不動寺執事」
<不動寺総門>
長州藩江戸屋敷門を移建したものです。
(説明板)
「不動寺総門
元長州(現在の山口県)藩主毛利家の江戸屋敷に建てられた門である。
素材は全て「けやき」で造られ直線が巧みに組み合わされており、いかにも武家屋敷の門にふさわしく表現されている。
清廉豪快で質素ななかにも威風堂々としており気品も高くめずらしい門である。
構造型式 総けやき材 銅瓦葺 切妻作り
昭和五十年四月二十六日 天台宗別格本山狭山山不動寺」
<本殿と燈籠>
桂昌院、清揚院、文昭院、惇信院の奉献石燈籠が本堂の周りに配置されています。
清揚院は、徳川綱重、甲斐甲府藩主。徳川家光の三男。5代将軍徳川綱吉の兄。6代将軍・徳川家宣の父。
<桂昌院宝塔>
桂昌院(お玉さん)宝塔がこちらにあります。宝塔のみ移転しています。
桂昌院は、増上寺の合祀塔に改葬されています。
(参考)
・墓碑が足立区安養寺の本荘家墓域に建てられています。
・長命寺(練馬区)にも、桂昌院殿石燈籠がありました。
・洲崎神社は桂昌院の守本尊である弁財天を祀るために建立されました。
・心光院(港区)には、桂昌院殿が寄進したお竹大日如来水板があります。
<第一多宝塔>
「奉拝進」「台徳院殿尊前」2基があります。
第一多宝塔は、大阪の旧畠山神社からの移築です。
(説明板)
「第一多宝塔(埼玉県重要文化財)
この多宝塔は弘治元年(一五五五年)大阪府高槻市梶原の畠山神社に美濃国林丹波守が建立したと伝えられているが上層屋根の隅木に慶長十二年(一六〇七年)の墨書があり、約三七〇年前の桃山時代の建立であることが明らかである。
昭和三十六年四月当境内に移され、大和工匠の手によって修復され完成した。細部の装飾手法に桃山時代の特色をよく表しているばかりでなく全体の形もよく整い、昭和三十八年四月埼玉県有形文化財に指定されている。構造形式 三間多宝 本瓦葺(以下略)」
<丁子門>
崇源院(お江の方・二代将軍徳川秀忠正室)霊廟・霊牌所丁子門です。国重文です。
(説明板)
「丁子門(重要文化財)
元、東京芝にあった徳川家崇源院霊牌所の通用門として寛永九年(一六三二)三代将軍徳川家光公が建立したものである。建築の細部手法、色彩等に江戸初期に見られる特有な階調を示し、唐様な基調としているが自由な扱いをしているところに特徴がある。現在国指定の重要文化財となっている。なお崇源院は2代将軍徳川秀忠夫人太閤豊臣秀吉の側室淀君の妹にあたる。
構造形式 平唐門 銅板葺
昭和五十年四月二十六日 天台宗別格本山狭山山不動寺」
<弁天堂/弁財天>
「桂昌院殿尊前燈籠」があります。
弁天堂は、近江清涼寺(井伊家菩提寺)から昭和23年に移築されました。
本尊は東叡山寛永寺現龍院から遷座した仏像です。
(説明板)
「弁天堂(旧清涼寺経蔵)
このお堂は滋賀県彦根市吉沢町の清涼寺に井伊直孝の息女が父直孝の追善菩提のため建立したものである。建立の年代は万治二年(一六五九年)より元禄六年(一六九三年)の間と考えられる。昭和二十三年八月当境内に移築され、その後、弁財天をお祀りした。
構造型式 六角堂一重本瓦葺
弁財天
このお堂の御本尊は上野不忍池弁天堂の御本尊である。大弁財天の分身として、古く東叡山寛永寺山内にお祀りされていた尊天である。
この度当山の開創にあたり、御尊天をお迎えいたしました。弁天様を拝むと智恵福徳をはじめあらゆる心願が成就されます。どうか是非この御本尊にお詣りなさって広大無辺なご利益をお受けになるようにつつしんでお勧め申し上げます。
昭和五十年四月二十六日 天台宗別格本山狭山山不動寺」
<羅漢堂/羅漢堂山門/唐金灯籠>
羅漢堂は昭和28年港区麻布井上馨邸を移築。
羅漢堂山門は虎ノ門田中平八郎邸の門を移築。
木母寺に伊藤博文の揮毫による「天下之糸平」石碑があります。記述済。
(説明板)
「羅漢堂
明治の元勲として有名な故井上馨公が還暦祝賀の際、明治天皇、昭憲皇太后、両陛下の御下賜金を基として、明治二十八年(一八九五)
公が、内務大臣の時、山県有朋、伊藤博文、大隈重信等の発起で、三井、鴻池、住友、岩崎、その他の財界の名士により、寿像と共に奈良二月堂の経堂を模倣し、名工根本茂樹によって公の屋敷内に建立されたもので、昭和二十年四月、戦災で、このお堂だけが残り、当主井上三郎氏が寄贈し、当境内に移築されました。
構造形式 銅板葺
羅漢堂山門
昭和二十九年、虎の門、元田中平八郎邸より移築したものである。氏は海外貿易で、「天下の糸平」といわれた生糸商人で有名である。
構造形式 むくり破風 銅瓦こけら葺
唐金灯籠
東京芝徳川家台徳院霊廟に建てられたもので、全国の大名から献納されたものである。
天台宗別格本山狭山山不動寺執事」
<大黒堂>
大和極楽寺歌塚堂を昭和38年に移築しています。
大黒天は東叡山寛永寺見明院から遷座した仏像です。
(説明板)
「大黒堂(旧歌塚堂)
このお堂は、歌聖柿本人麿のゆかりの地、奈良極楽寺境内に建立された人麿の歌塚堂である。当時の歌人達が歌会を開いた堂宇であると伝えられている。昭和三十八年五月、当境内に移築され、後大黒天をお祀りした。
構造形式 本瓦葺 入母屋造り
大黒天
このお堂の御本尊は東叡山寛永寺山内の見明院に奉安されていた尊天である。
この度、当山の開創にあたり御尊天をお迎えいたしました。昔から大黒天を拝むと一生食べるに困らないといわれてます。どうか是非この御本尊をお詣りなさいまして広大無辺なご利益をお受けになる様謹んでお勧め申し上げます。
昭和五十年四月二十六日 天台宗別格本山狭山山不動寺」
<第二多宝塔>
兵庫の椅鹿寺から昭和39年に移築しています。
(説明板)
「第二多宝塔
この多宝塔は室町時代中期永享七年(一四三五年)兵庫県東條町天神の椅鹿寺に、播磨国守護赤松満男教康が建立したものである。
細部にわたって室町時代中期の様式をよく伝えている秀作である。大和の工匠の手によって当境内に移され、昭和三十九年八月完成した。
構造型式 三間多宝 本瓦葺
昭和五十年四月二十六日 天台宗別格本山狭山山不動寺執事」
<桜井門>
桜井門の前に駐車場があります。下調べ不十分で開門時間の10時前に到着、閉門していました。
お隣の山口観音を先に参拝しました。
桜井門から入ると、清揚院殿と桂昌院殿の増上寺奉献石燈籠がずらりと並んでいます。
桜井門は、大和桜井寺山門を移築しています。
桜井寺は幕末天誅組の本陣として利用されたこともあるとのこと。
(説明板)
「桜井門
この門は奈良県十津川の桜井寺の山門として建立されたものである。桜井寺は幕末天誅組の本陣として利用されたこともある。
構造形式 千鳥破風 四脚門 本瓦葺(切妻造り)
天誅組
江戸時代未明の尊王攘夷志士の一派。文久三年(一八六二年)八月十七日、吉村寅太郎、藤本鉄石らの志士は、公郷中川忠光を擁立し、大和国(現在の奈良県)の南部で討幕の兵をおこし五條代官を襲撃した。これを五條の変、十津川の変、大和義挙という。(以下略)」