Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 渋沢栄一生誕の地/血洗島

  ○ 旧渋沢邸「中の家」
  ○ 青淵公園 青淵由来之跡
  ○ 麺屋忠兵衛
  ○ 東の家跡地(渋沢酒店)
  ○ 諏訪神社


旧渋沢邸「中の家(なかんち)」 深谷市血洗島247-1

 渋沢栄一が生まれ育った主屋は明治25(1892)年に火災で焼失し、
 現在の中の家は家督を継いだ栄一の妹てい、夫の市郎夫婦が明治28(1895)年に上棟した住居です。
 現在は土地建物ともに深谷市所有となっています。

<旧渋沢邸「中の家」> 深谷市指定史跡

   

 駐車場に掲示されている説明板です。

(説明板)
「我が人生は、実業に在り。渋沢栄一
 天保十一年(一八四○)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。昭和六年(一九三一)九十二歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。日本実業界の祖。希代の天才実業家と呼ばれる所以である。
 男の転換期。慶応三年(一八六七)十五代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。二十八歳の冬であった。栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくなまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャー・ショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貧欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。
 他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。
 二年間の遊学を終え、明治元年(一八六八)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向って、一途に歩み始めた。
 帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治六年(一八七三)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により、大きく開花した。
 以後、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。
 栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。
 私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。
 失うことのなかった、こころの若さ。そこから生まれた力のすべてを尽して、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並はずれた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。
  昭和五十九年一月 寄贈 エコー実業株式会社」

  

<標柱>

 旧渋沢邸「中の家」は、深谷市指定史跡に指定されているとともに、
 「渋沢栄一生地」として県の旧跡にも指定されています。
 「青淵翁誕生之地」(昭和15年建立)は、幸田露伴の書です。

   

(案内板)
「深谷市指定文化財 旧渋沢邸「中の家」(なかんち)
 旧渋沢邸「中の家」に残る現在の建物は、母屋、副屋、4つの土蔵、門、塀から構成されます。明治時代の埼玉県北部の豪農の屋敷として貴重な歴史遺産です。渋沢栄一翁も天保11年(1840)にこの地で誕生しました。」

  

<中の家にて>

 昭和2年「中の家」にて(パンフレット)

  

<若き日の栄一像>

 徳川昭武の訪欧使節団(パリ万博)に随行し慶応3(1867)年に、フランス マルセイユで撮影された写真を元に製造されました。
 「若き日の栄一 Eiichi in Paris 1867」

     

<主屋>

    

<屋根瓦紋>

 澁澤倉庫の社章と同じですね。
 藍玉の商いをするときに使用した記章の(ちぎり・りうご)の瓦です。

    

<渋沢栄一アンドロイド(和装姿)>

 渋沢栄一アンドロイドがプレ公開中です。首から上だけ動いています。
 令和3年2月13日〜12月26日まで。

    

<谷中霊園にあった碑>

 旧渋沢邸にある三基の碑は、栄一が眠る谷中霊園にありましたが、
 渋沢家墓所の整理縮小にあたって子孫より寄贈され「中の家」に据えられています。

【移設の経緯】
「この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、平成二十六年三月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。」

     

<先妣渋沢氏招魂碑>

 渋沢栄一の母、渋沢えいの碑。撰文は栄一。

【解説】
「この碑は、渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑である。
 碑の内容は、よく働き、贅沢をせず、慈愛をもって人々に接するという、えいの人となりを記すもので、栄一翁は生涯にわたり多数の社会福祉事業に携わったが、その資質は母から受け継がれたものであることがよく示している。
 えいは明治七年病により東京で逝去し、夫晩香の墓に寄り添うように葬られ、この碑は明治十六年癸未十一月七日谷中に建てられた。
 碑の撰文には栄一翁自身が行い、題額と書は、明治の三筆に数えられる巌谷修(一六)によるもので、亡き母を敬慕する栄一翁の心情をうかがわせる碑である。」

    

<晩香渋沢翁招魂碑>

 渋沢栄一の父、渋沢市郎右衛門の碑。撰文は尾高惇忠。

【解説】
「この碑は、渋沢栄一翁の父で、晩香と号した渋沢市郎右衛門の招魂碑である。
 明治四年十一月二十二日、享年六十三で亡くなった。年が明けた正月五日に郷里の墓地に葬られた。
 晩香没後の明治五年、故郷血洗島を出て東京に居を構える栄一翁が、時宜に応じて父の祭事を欠かすことのないよう、東京の谷中天王寺境内に建立したものである。撰文は尾高惇忠、書は明治の三筆に上げられる日下部東作(鳴鶴)、題額は同じく三筆の巌谷修(一六)である。」

   

<渋沢平九郎追懐碑>

 渋沢平九郎は、尾高惇忠の末弟です。栄一がパリ万博に旅立つ前に養子となりました。
 1864(慶応4)年、飯能戦争で自刃。撰文は栄一。

【解説】
「この碑は、渋沢栄一翁が、飯能戦争で亡くなった自分の義子平九郎を偲んで作ったものである。
 平九郎は尾高惇忠の末弟で、栄一翁がパリ万博へ旅立つ際に養子となった。兄淳忠は栄一翁の学問の師で、富岡製糸場初代場長となった。
 慶応四年四月、江戸城が開場すると、平九郎は、年少ながら主家の窮状を見過ごすことが出来ず、振武軍に身を投じた。振武軍は、渋沢喜作や尾高惇忠を中心に、旧幕臣で構成されたものであるが、五月二十三日、飯能で官軍を迎え撃った。わずか半日の戦闘で壊滅状態となり、平九郎は戦場から故郷を目指して逃走、顔振峠を超えて黒山(現越生町)に至り、官軍と遭遇、進退窮まり、ついに自刃して果てた。
 この追悼碑は、平九郎没後五十年を経た大正六年に建てられたもので、平九郎の手跡を石に刻むとともに、栄一翁が平九郎を追悼して作った詩が刻まれている。時を経てもなお、若くして亡くなった義子平九郎を悼む栄一翁の、思いの深さをうかがわせる。」

   

<中の家を守った渋沢家の人々>

 渋沢栄一が中の家を出た後、中の家を守った妹のていと婿の市郎、そして夫妻の次男治太郎、
 さらに名古屋大学総長を退任後、中の家に戻った夫妻の長男元治。
 諏訪神社に顕彰碑があります。下記画像はパンフレットより抜粋です。

   

<中の家の建物>

 旧渋沢邸「中の家」副屋、旧渋沢邸「中の家」土蔵T
     

 旧渋沢邸「中の家」土蔵U、旧渋沢邸「中の家」土蔵W
     

 旧渋沢邸「中の家」土蔵V、井戸、祠
     

 庭にあった石が気になりました。力石にしては小さくまん丸。渋沢栄一少年の練習用力石と勝手に思いこむ。
  


青淵公園 青淵由来之跡 深谷市血洗島255

 青淵由来之跡の碑は、旧渋沢邸の裏の青淵公園に建てられています。

<青淵由来之跡>

 表面「青淵由来之跡」は、渋沢栄一とも親交のあった清浦奎吾の揮毫です。
 裏面には、栄一の甥の渋沢治太郎による「建碑の記」が記銘されています。昭和11年10月記銘。

 渋沢栄一の号「青淵」は、渋沢栄一が18歳頃に尾高惇忠に付けてもらいました。(雨夜譚会談話筆記に記載)
 中の家の下にあった淵が命名のもとで、中の家は「血洗島字淵の上」でした。(碑裏面に記載)

    

   

<青淵橋> 深谷市血洗島〜下手計

 清水川にかかる橋は青淵橋。

  


○渋沢家墓地

 血洗島渋沢一族墓地だと勘違いしました。そちらはもう少々東でした。

  

○稲荷神社 深谷市血洗島

 稲荷神社があります。その奥にはネギ畑が拡がります。

   


麺屋忠兵衛 深谷市血洗島247-1 048-598-2410 11:30-14:00 HP
 
 旧渋沢邸(中の家)の真横に古民家の煮ぼうとうの店「麺屋忠兵衛」があります。
 山梨の味噌仕立てのかぼちゃほうとうと趣を異にし、深谷の煮ぼうとうはしょうゆ仕立てです。

     

     


東の家跡地(渋沢酒店) 深谷市血洗島234-5

 論語の道にある渋沢酒店に「東の家跡地」の掲示があります。

 「天皇皇后両陛下来村 平成二十九年十月二十一日
  渋沢市郎右衛門・喜作 宗助 東の家跡地 渋沢利雄」

    


諏訪神社 深谷市血洗島117-6

 諏訪神社は旧血洗島村の鎮守です。

 本殿は明治40(1907)年9月に渋沢栄一と血洗島村民が費用を折半して造営されました。
 拝殿は大正5(1916)年9月に渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進しました。

   

<血洗島獅子舞> 深谷市無形民俗文化財

 渋沢栄一も幼少期に舞った血洗島獅子舞は、深谷市の無形民俗文化財に指定されています。

(観光案内板抜粋)
「血洗島獅子舞 市指定無形民俗文化財
諏 訪神社の祭礼(秋季大祭)に奉納される。元亀2年(1571)にはじまると伝わり、雄獅子(おじし)・雌獅子(めじし)・法眼(ほうがん)の3頭が一組となって、笛のお囃子のもとで舞う。栄一翁も幼少より雄獅子を舞っており、帰郷の際には参観していた。」

  

<社号標/参道>

 社号標「村社諏訪神社」は、明治30(1897)年に栄一が揮毫したものです。

     

 拝殿の左脇に橘の木と石碑があります。長女穂積歌子が橘の木を植え石碑を建てました。

(説明板)
「諏訪神社
 血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く、源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も参拝したと伝えられている。
 大正五年(1916年)に渋沢栄一の喜寿を記念して村民により建てられた渋沢青淵喜寿碑が境内に残る。神社の拝殿は栄一がこれに応えて造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に参詣した。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 境内には、栄一手植えの月桂樹があった。また長女穂積歌子が父、栄一のために植えた橘があり、その由来を記した碑がある。 深谷市」

   

<澁澤親子遺徳顕彰碑>

 一の鳥居の右側に大きな「渋沢親子遺徳顕彰碑」があります。「以和為貴」の題字です。
 渋沢栄一が中の家を出た後、中の家を守った市郎、そして市郎の次男治太郎、
 さらに名古屋大学総長を退任後、中の家に戻った長男元治、この三人を顕彰しています。昭和48年の建立です。
 碑文は、諏訪神社の拝殿に置いてあるパンフレットに記載されてるので参考になります。

    

<澁澤栄一翁の寄進による拝殿建立一○○周年記念>

 「平成二十八年十月吉日」

    

<宮城遥拝所>

 紀元2600年記念(昭和15年)。

  

<拝殿・本殿>

 拝殿と本殿はそれぞれ独立しています。
 本殿の扁額は渋沢栄一の揮毫です。
 「諏訪神社 正四位勲二等男爵澁澤榮一謹書」

    

    

<渋沢青淵翁喜寿碑>

 渋沢栄一の喜寿を祝って、諏訪神社の氏子中の拠金によって建立されました。
 徳川慶久(徳川慶喜の7男)の題額です。
 碑文は、諏訪神社の拝殿に置いてあるパンフレットに記載されてるので参考になります。

    

  

<天満宮ほか>

 境内右奥に天満宮があります。境内左奥に石祠2、石祠3があります。

    


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