○ 明治政府と平将門の排斥
○ 将門塚 (大手町)
○ 築土神社石碑(九段北)
○ 築土神社 (九段北)
○ 神田明神 (外神田) 別頁
○ 鎧の渡し跡/兜神社(兜町) 別頁
○ 奈良の大仏 (市原市奈良) 別頁
【藤原秀郷】
○ 烏森神社 (新橋) 別頁
○ 鎧神社 (北新宿)
○ 円照寺 (北新宿) 別頁
○ 水稲荷神社 (西早稲田) 別頁
○ 亀戸香取神社(亀戸) 別頁
平将門は天皇に逆らった朝敵であり、明治政府の命により平将門を祭る神社は祭神から外されました。
神田明神では、明治天皇が行啓する際、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、
明治7(1874)年に平将門を御祭神からはずしています(昭和59(1984)年に復権)。
築土神社では、明治7(1874)年に、皇室とゆかりのある新たな祭神を歓請しています。
平将門を祀る鎧稲荷を合併した兜神社では、明治7(1874)年に新しい御祭神をお祀りしています。
平将門の鎧が埋められたと伝えられる鎧神社では、明治7(1873)年、御祭神の平将門公は末社に遷されています。
(戦後になり御祭神に復活しています。)
将門塚は、排斥運動から将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたともされます。
大蔵官僚だった織田完之が復権運動に精力を傾け、「将門塚」に古蹟保存碑を建立しています。
「東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強」(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)
月岡芳年のパロディーです。
神田明神の御祭神からはずされ御神殿を下りた平将門と7人の影武者が、
写真師の勉強のために、カメラを前に元祭神としてポーズをきめています。芳年の発想に驚嘆します。
【平将門像】 延喜3(903)年〜天慶3年2月14日(940年3月25日)
「平将門故蹟考」(織田完之 碑文協会 明治40年6月 国会図書館蔵より)
「芳年武者旡類 相模次郎平将門」(明治16年 国会図書館蔵より)
「平将門島広山討死の場」(豊原国周 明治23年 国会図書館蔵より)
「近江八景之内 堅田落雁 平将門」(豊国 嘉永5年 国立国会図書館蔵より)
「新形三十六怪撰 藤原秀郷竜宮城蜈蚣を射るの図」(芳年 国立国会図書館蔵より)
藤原秀郷(俵藤太)の百足退治が描かれています。
将門塚は、平将門の首を祀る塚です。東京都指定旧跡となっています。
将門塚の改修工事が完了し、2021年4月26日、落慶法要と改修竣工の式典が行われています。
<標識「将門首塚」>
近くの交差点に、標識「将門首塚」が掲示されています。
<故蹟保存碑/都旧跡将門塚>
入口右脇に「故蹟保存碑」「都旧跡将門塚」の2基の石碑があります。
「故蹟保存碑」は、明治39(1906)年5月に大蔵省が建立し、
現在の碑は昭和15(1940)年に再建されたもので、当時の大蔵大臣・河田烈の書です。
<ウッドフェンス>
ウッドフェンスには将門公の九曜紋が入れられています。
他にも九曜紋が見られます。
(説明板)
石碑2基の裏に、コンパクトな説明パネル板が3枚あります。
<東京都指定旧蹟 将門塚>
(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
所在地 千代田区大手町一の二
指 定 昭和四六年三月二十六日
平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱)を起こし九四○年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。
徳治二年(一三○七)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を立てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は、神田明神において祀られ神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災後、大蔵省再建のため崩されました。
幾多の変遷の後、令和三年(二○二一)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。
令和三年五月 東京都教育委員会」
<保存会/神田明神>
(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
史蹟 将門塚保存会
江戸総鎮守 神田明神」
<参詣者の皆さまへのお願い>
供物は持ち帰りください、寄進はお控えくださいとのことです。
改修前に寄進されていた「カエル」は神田明神で保管しているようです。
<板石塔婆/石燈籠>
将門塚中央に「板石塔婆」、その後ろに「石燈籠」があります。
昭和45(1970)年に将門塚の板石塔婆が盗まれ、三つに折られ戻ってくるという事件が起きました。
新しい板石塔婆が、真教上人が将門を供養した徳治2(1307)年の旧状を模し同年9月に再建されています。
板石塔婆の文面は、真教上人が「蓮阿弥陀仏」の諡号を追贈した際に作られた板碑の拓本から取ったものです。
表面「平将門 蓮阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
徳治二年」
側面「東京青山 石勝ガーデン刻」
江戸開府のために、徳川家康の命により全国から集められた職人衆に「石勝」がありました。
宝永3(1706)年に創業された「石勝」は、度重なる江戸城の石普請に加わりました。
石勝は、明治から大正にかけて全国至るところで多くの石造建造物を建造しました。(現:石勝エクステリア)
裏面 経緯が記されています。
<石燈籠/千鳥岩>
埋め立てられた御手洗池にあった石燈籠と千鳥岩が残されています。
石燈籠は板石塔婆の後ろに、千鳥岩は、石段を上がった正面にあります。
「江戸の今昔」(歌川広重 昭和7年)
昭和初期に出版の「江戸の今昔」に掲載の将門塚です。
靖国通りと平行している中坂の坂下に「築土神社石碑」があります。
築土神社の由来が石碑に刻まれています。
<飯田橋散歩路 築土神社>
「築土神社
天慶三年(九四○)、関東平定の末、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸
(現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明一○年(一四七八)には太田道灌が江戸城の乾
(北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇された。」
「江戸名所図会 築土八幡宮 同明神社」
江戸名所図会には、当初鎮座していた地に、築土八幡宮と並んで明神社が描かれています。
<築土神社の変遷>
天慶3(940)年、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸
(現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明10(1478)年には太田道灌が江戸城の乾
(北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇されました。
天文21(1552)年に田安郷に移転、天正17(1589)年に江戸城の拡張により牛込見附へ移転、元和2(1616)年には江戸城外堀拡張のため筑土八幡神社(現:新宿区筑土八幡町)の横に移転し、「築土明神」と改称。
明治7(1874)年、平将門から主祭神がかわり「築土神社」と改称。戦災により全焼。昭和21(1946)年千代田区富士見に移転、昭和29(1954)年、現在地の世継稲荷境内地へ移転。現社殿は平成6(1994)年に建てらています。
<中坂の中腹に社号標>
<千代田区 都市景観賞>
ビルの屋上には剣がそびえています。
<狛犬>
(説明板)
「狛犬
千代田区指定文化財
1996年(平成8年)4月1日指定
1780年(安永9年)元飯田町の人たちによって奉納された狛犬で、年代が明らかなものとしては千代田区内で最古となります。元飯田町とは1697年(元禄10年)の火災後の町地整備ののちにできた町名で、現在の富士見一丁目及び九段北一丁目付近にあたります。
社伝によれば築土神社は、940年(天慶3年)に武蔵国豊島郡上平川に祀られたのち、田安、牛込門内、牛込門外の筑土山と所在とを変えて、1954年(昭和29年)に現在の場所に戻ってきました。狛犬が奉納された1780年(安永9年)当時は、牛込門外の築土山(現在の新宿区筑土八幡町2番地)に神社が所在していた時期ですが、離れた場所にあってもなお、旧所在地の元飯田町の人々が厚く信仰していた様子がうかがえます。」
<手水舎>
<拝殿>
<力石>
拝殿右に力石2基祀られています。
開設板によると、船の重しとして利用されたとあり、この説明は初めて見ました。
(説明板)
「力石
千代田区指定文化財
1989年(平成元年)4月1日指定
力石は一定重量の円形または楕円形の石で、一般的には神社の境内や地域の集会を行う場所などにあって、若者たちが力試しに用いたと言われています。
しかし築土神社の場合は、神社が日本橋掘留橋近くにあったことから江戸時代の交易や運搬手段として主流であった水運との関係が指摘されています。すなわち、この力石は船底に積んで船を安定させるための重しとして利用されたとみられます。」
<平将門の首桶>
平将門の首桶は、戦災で焼失しています。
「東京市史稿 市街篇第貳」(東京市 大正3年)に、記録と写真が残っています。
藤原秀郷が平将門の鎧を埋めれたとの伝承が残る神社です。
明治維新により、明神の神号の使用が禁止され、鎧明神社から鎧神社へと改称となります。
明治7(1873)年、御祭神の平将門公は末社に遷され、戦後になり御祭神に復活しています。
「江戸名所図会 鎧明神社 圓照寺」
江戸名所図会に描かれています。社前に「兜松」が描かれています。
(本文)
「鎧明神祠 圓照寺の艮の方にあり 圓照寺の持なり 相伝ふ藤原秀郷 将門を誅戮し凱陣の後
将門の鎧を此地に埋蔵し上に禿倉を建て鎧明神と称すといふ
社前に兜松と称ふる古松あり これもその兜を埋たる印と云」
<社号標/鳥居/手水舎/神楽殿>
<鎧神社縁起>
「鎧神社縁起
祭神
日本武尊 大己貴命 少彦名命 平将門公
縁起、氏子地
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事より社名起ると伝えている。天慶三年(九四○)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(九四七)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば将門軍残党を追って此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子地は北新宿全域と西新宿一部
平成二年十一月吉日 宮司 新井喜也記」
<兜松の碑>
平将門の兜を埋めた跡と伝わる「兜松の碑」が拝殿右手にあります。「昭和五十三年九月」建碑。
「江戸名所図会」にも描かれた兜松と呼ばれた大木を偲んでいます。
兜松は、明治時代の台風で倒れ、代わりに椎の木が植えられました。
当時の時代背景から平将門を想起させる松は植えられなかったのかもしれません。
現在は石碑の横に松が植えられています。
<拝殿/本殿>
<天神社>
「狛犬型庚申塔」と解説された狛犬があります。
享保6(1721)年の紀銘です。
(説明板)
「新宿区指定有形民俗文化財 狛犬型庚申塔
所在地 新宿区北新宿三丁目十六番十八号
指定年月日 昭和六十年十月四日
素朴な一対の狛犬を用いた庚申塔で、台座正面に「庚申奉造立供養」。側面には武州豊島郡柏木村在住の講中の氏名と享保六辛丑天十一月(一七二一)の紀年銘が記されている。
向かって右側が阿形像(雄)、左側が吽形像(雌)で、当時の姿をほぼそのまま残している。
狛犬型の庚申塔は珍しく民俗学的にも貴重なものである。
平成四年八月 東京都新宿区教育委員会」
(考察)
庚申供養のための狛犬が狛犬型庚申塔であるならば、
庚申供養のための手水鉢や、出羽三山供養のための狛犬も、
「手水鉢型庚申塔」や「狛犬型出羽三山供養塔」と呼んで差し支えないのでしょうか。
「手水鉢型庚申塔」(赤山日枝神社、旧安田庭園)
「狛犬型出羽三山供養塔」(大鷲神社)
「手水鉢型湯殿山供養塔」(渕の宮氷川神社)
<石碑>
<裏参道>
狛犬は、天保7(1836)年と台座に銘があります。
<合祀殿>
裏参道にある合祀殿。稲荷神社・三峯神社・子の権現を祀っています。
右の祠にお稲荷さんが置かれているので、右が稲荷神社のようです。