Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 高輪 旧高輪中町

  〇 東禅寺
  〇 高輪公園
  〇 洞坂

  〇 高野山東京別院
  〇 消火栓蓋
  〇 桂坂


東禅寺 国史跡 港区高輪3-16-16

 佛日山東禅寺と号します。
 幕末の開国にともない、安政5(1858)年、東禅寺に最初の英国公使館が置かれ、オールコックの宿館として慶応元(1865)年まで使用されました。
 二度尊皇攘夷派による襲撃の場となりました。
 なお、イギリス公使館員の宿所となっていた「僊源亭」やその前の庭園などは残っていますが、非公開で見学はできません。

(標柱)
 「都史跡 最初のイギリス公使宿館跡
  昭和二十八年十一月三日指定 昭和四十四年十月一日建設
  東京都教育委員会」

   

(説明板)
「国指定史跡 東禅寺
  所在地 港区高輪三丁目
  指定  平成二二年二月二二日
 東禅寺は、幕末の安政六年(一八五九)、最初の英国公使館が置かれた場所です。東禅寺は、臨済宗妙心寺派に属し、開基の飫肥藩主伊東家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また、臨済宗妙心寺派の江戸触頭でもありました。
 幕末の開国に伴い、安政六年六月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(一八六五)六月まで七年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(一八六一)五月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌二年五月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。
 現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭(せんげんてい)」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。
 幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。
  平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」

  

「東京名勝図会 高輪英吉利館」「東京名勝尽 高輪の応接所」(三代広重 都立図書館蔵)

 東禅寺のイギリス公使館は度重なる襲撃を受け、江戸幕府は慶応2(1866)年に、泉岳寺門前(現在の泉岳寺前児童遊園の一画)に、
 実質的なイギリス公使館である高輪接遇所を建設しました。
 「東京名勝図会 高輪英吉利館」「東京名勝尽 高輪の応接所 」(三代広重)に描かれています。

   

「江戸名所図会 東禅寺」

 左下の東海道に面した「総門」から入り参道を進むと「山門」があります。
 その先に「本堂」があります。本堂の右には「方丈」「庫裏」があります。
 本文には「此門の額海上禅林の四大字は朝鮮国雪峯の書なり頗る世に称せり」と記されています。

  

「江戸切絵図」

 「東禅寺」が記されています。

  

「東都高輪風景」(橋本貞秀)

 東禅寺も描かれています。
 「東ぜん寺」「庚申堂」「ゑんま堂」「義士の墓」「大佛」「泉岳寺」と並んでいます。

   

<山門>

 昭和46(1971)年に再建された山門です。
 山門の両端には仁王像が立っています。

    

   

<本堂>

 扁額は「海上禅林」です。
 江戸名所図会の本文によると、総門に掲げられている額は、朝鮮国の雪峯の書としています。
 江戸時代は、眼前に江戸湾が広がっており、「海上禅林」とよばれていました。
 今はない総門に掲げられていた扁額「海上禅林」が現在は本堂に掲げられています。

     

<玄関>

   

<三重塔>

 平成4(1992)年に建立された三重塔です。

   

<鐘楼>

  


高輪公園 港区高輪3-18-18

 国道15号に面したかつて東禅寺の総門があったところから東禅寺の山門への参道途中左手に「高輪公園」があります。
 公園の地下には、都営浅草線が通っています。

     

「渚 淀井敏夫」
 
 公園入口に彫刻「渚」が設置されています。

    

(説明板)
「公園附近沿革案内 
 この公園の付近は、三方を丘で囲まれた静かなくぼ地で、江戸入口の大木戸から南方に当たり国道東側まで海があって、景色のよい所だった。
 今から約300年前寛永13年(1636年)に近くにある東禅寺が赤坂から移った。この禅寺を中心として多くの寺が建ち、その周辺には有名な大名井伊、本多家などの下屋敷があった。
 幕末には、東禅寺は最初の英国公使館となった。附近の一部は江戸時代を通じ荏原郡高輪村であったが、明治5年東禅寺、法蔵寺、法蓮寺、浄業寺等の寺地と、本多家下屋敷のー邨を合併し下高輪町となった。
 高輪の地名は、高い所にある、まっすぐな道という意味の高縄手道が略されたものとも、岬を意味する高鼻というのがなまったものともいわれる。
 この場所は以前、酒井邸であったところで昭和36年11月東京都交通局の所有になり昭和45年10月港区が買収し昭和47年7月高輪公園として開園した。
  港区」

  


洞坂 港区高輪3-16・19

 東禅寺の北側に、桂坂の途中(東芝山口記念館の脇)に出る洞坂(ほらざか)があります。 
 坂下と坂上に標柱があります。手すりが設置されている坂です。

<洞坂下>

(標柱)
「洞坂 ほらざか
 法螺坂・鯔坂とも書く。このへんの字を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、むかしほら貝が出たとも、またくぼだから、洞という等様々な説がある。」

    

<洞坂上>

     


高野山東京別院 港区高輪3-15-18 HP

 高野山真言宗総本山金剛峯寺の東京別院です。
 慶長年間、浅草の日輪寺内に開創され、延宝元(1673)年「高野山江戸在番所高野寺」として芝二本榎に建立されました。
 御府内八十八ヶ所霊場1番札所、関東八十八ヶ所霊場特別霊場、江戸三十三観音霊場29番霊場です。

「江戸切絵図」

 江戸時代以前は東側の海岸沿いにつくられた東海道(現在の第一京浜)は存在せず、
 「二本榎通り」が古来からの東海道でした。
 「二本榎通り」に沿って多くの寺院が建立されていました。
 切絵図に見える「高野寺」もそのうちの一つです。

  

「現在の地図」

  

「江戸名所図会 二本榎 正覚院」

 挿絵には「高野山学侶派の在番所なり世に高野寺といふ」とあります。

(本文)
「高野山宿寺
 正覚院と号し真言宗古義の觸頭なり世俗高野寺と称せり同所南の方一丁斗小あり本尊弘法大師の像なり門を入て本堂の右の方に丹生高野両神の祠あらむ堂前に三鈷松あり毎歳三月廿一日影供を修行せり」

  

<山門>

 二本榎通りに面して、山門があります。
 山門脇には「修行大師像」が建っています。

    

<高野山東京別院縁起>

 令和2年7月奉納(後藤田尚吾奉納)と新しい碑です。

  

<百度石>

  

<四国八十八ヶ所お砂踏み>

 山門を抜けた左手に、「四国八十八ヶ所お砂踏み」があります。
 八十八ヶ所のお地蔵様が並んでいます。

  

<忍耐はすべての扉を開く>

 後藤田正晴夫妻の碑があります。

(台座)
「忍耐はすべての扉を開く
 本当に国の将来未来を切り開こうと考えるのなら
 歴史に正対をしていくぐらいの覚悟がなくて、どうなりますか
 歴史に正対せよ
 それだけの国としてまた国民としての勇気を持て道義性を持て
 これがいちばん大事だよ
 歴史から逃げたらあかんということです
 (平成十七年五月二十四日 加藤周一氏との対談にて)
 一日生涯  後藤田正晴」

   

<明神社>

 明治の廃仏毀釈で失われていた「明神社」が、
 平成27(2015)年に、高野山開創1200年を記念して再建されました。
 石造の4つの神社が並んでいます。
 右から「丹生明神・気比明神」「高野明神・厳島明神」「十二王子・百二十番神」「高輪神社」

    

<不動堂>

 不動堂に不動明王が祀られています。

  

<方位測定基点の石碑>

 三鈷と仏足石があしらわれています。
 それぞれ、高野山とブッダガヤの方向を指してます。

  

<鐘楼>

  

<本堂 遍照殿>

 昭和63(1988)年に建立された本堂「遍輝殿」です。
 本尊に弘法大師が祀られています。

    

<一願大師像>

  

<句碑>

 「喜びを 重ねて舞ふや 宵の春  はん女」

  

<後藤田家墓>

 後藤田正晴氏のお墓です。墓地ではなく本堂の右手にあります。
 以前は、鎌倉市の鎌倉霊園にありましたが、平成28(2016)年にこちらに改葬されています。

  

<寺務所/会館>

 「こうやくん」が出迎えていました。

   

<駐車場案内図>

 駐車場案内図は、建物の配置がわかりやすいです。

  


消火栓蓋 港区高輪3-14

 二本榎通り(旧東海道)に設置されていた「消火栓蓋」です。

   


桂坂 港区高輪2丁目と3丁目の間

 桂坂上に「高野山東京別院」があります。桂坂下は「高輪二丁目交差点」です。

(標柱)
「桂坂 かつらざか
 むかし蔦蔓(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。
 平成三十年一月 港区」

    


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