Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 上野公園不忍池 モニュメント

  ○ 龍門橋碑
  〇 藍染川
  ○ 生誕(朝倉文夫)
  ○ 緑のパンダ像(トピアリー)
  ○ かなりや歌碑
  ○ 駅伝の碑(駅伝発祥の地)
  ○ 鑑真像
  ○ 鳥たちの時間
  ○ 上野不忍池競馬 別頁


龍門橋碑 台東区上野公園2-1

 上野恩賜公園内の下町風俗資料館に近い植え込みの中に、石碑「龍門橋」があります。

  

「上野公園之図」(東京案内 明治40(1907)年)

 地図を見ると、不忍池から忍川へ流れ出す水路に「龍門橋」が架かっています。

  

「上野公園地 内国勧業博覧会開業図」(進斎年光 明治10年 台東区立図書館蔵)

 明治10年8月21日から11月30日まで開催された第1回内国勧業博覧会を描いています。
 不忍池には「龍門橋」が見えます。
 ここまでが「藍染川」で、ここから先は「忍川」となります。

   

「内国勧業博覧会之図」(小林清親 明治10年 国立国会図書館蔵)

 「龍門橋」が描かれています。

   

「池の端弁天」(小林清親)

 不忍池に弁天堂が見えます。
 石橋は「龍門橋」と推定します。左手の石碑は「龍門橋」と刻まれていると思われます。
 堀が不忍池に繋がっていたのは、北側の旧藍染川の「月見橋」と南側の忍川の始点の「龍門橋」だけでした。

「上野」(永井荷風 昭和二年六月記 抜粋)
「池の端を描いた清親の板画は雪に埋れた枯葦の間から湖心遥に一点の花かとも見える弁財天の赤い祠を望むところ、一人の芸者が箱屋を伴い吹雪に傘をつぼめながら柳のかげなる石橋を渡って行く景である。この板画の制作せられたのは明治十二三年のころであろう。当時池之端数寄屋町の芸者は新柳二橋の妓と頡頏して其品致を下さなかった。さればこの時代に在って上野の風景を記述した詩文雑著のたぐいにして数寄屋町の妓院に説き及ばないものは殆無い。清親の風景板画に雪中の池を描いて之に妓を配合せしめたのも蓋偶然ではない。」

  

「池の端雪」(井上安治)

  

藍染川

 藍染川は、月見橋で不忍池に流入する流路のほか、不忍池の周りをめぐる堀(藍染川)がありました。
 この堀は不忍池とは区切られており、汚水の流入を減らすために江戸後期にできたようです。
 堀を渡らないと不忍堤に出ることができなかったため、多くの橋が架かっていました。

「東都名所 上野山王山 清水観音堂花見 不忍之池全図 中島弁財天社」(広重)

 描かれている範囲だけでも、3つの木橋が見えます。

   

「上野公園之図」(東京案内 明治40(1907)年)

 堀(藍染川)に架かる橋が、明治時代には「雪見橋」「中橋」「花見橋」「蓮見橋」とありました。

  

「東京上野 公園地 実測図 抜粋」(明治10年 台東区立図書館蔵)

 不忍池の北に、旧藍染川があり、「月見橋」が架かっていました。

  

「上野」(永井荷風 昭和二年六月記 抜粋)

 永井荷風の随筆「上野」によると、不忍池の周りをめぐる堀は、
 関東大震災後の復興で埋められて、新たに広い街路が開通したとのことです。
 不忍池の水源だった藍染川は、暗渠化され下水幹線として不忍池を迂回してしのばず通りの下を流れています。
 現在の不忍池の水源は、京成電鉄上野駅トンネル内の湧水とJR上野駅新幹線地下ホームの湧水となっています。

(抜粋引用)
「池と道路との間に在った溝渠は埋められて、新に広い街路が開通せられた。この溝渠には曾て月見橋とか雪見橋とか呼ばれた小さな橋が幾条もかけられていたのであるが、それ等旧時の光景は今はわずかに小林清親の風景板画に於てのみ之を見るものとなった。」


○「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧上野恩賜公園」 台東区上野公園2-1

 上野公園は広いですからね、旧町名由来案内が龍門橋碑の正面にもありました。

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ 
 旧上野恩賜公園
 江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎える
が慶応四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
 恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模景観はもとより施設などが我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
 上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。 台東区」

  


生誕(朝倉文夫) 台東区上野公園2-1 下町風俗資料館

 昭和39(1964)年、生誕噴水塔建設。
 平成13(2001)年、地下駐車場の整備に伴い撤去。

  

(説明板)
「「生誕」は、新生日本で立ち上がる若人を釈迦誕生のポーズに重ねた作品で、永らく上野公園入口前で生誕噴水塔の象徴として上野の街並みに潤いを与え、多くの人々に親しまれてきた。
生誕噴水塔は昭和39年(1964年)のオリンピック東京大会を機に、地元有志で結成された上野美化促進会による都市の美化と戦後復興を祈念して建設された後、円滑な交通の確保等に向けた上野中央通り地下駐車場の整備に伴い撤去された。
再び東京でオリンピック・パラリンピック競技大会を迎えるにあたり、不忍池を臨むこの地で「生誕」を継承し、昭和と令和の東京大会の象徴として、とこしへに輝き続けることを祈念する。
  令和2年(2020年)7月15日 台東区」

   

 令和2(2020)年7月15日、現在地に除幕(再設置)されました。

     


緑のパンダ像(トピアリー) 台東区上野公園

 かつて生誕噴水塔があった場所には、緑のパンダ像が設置されています。

  

 平成24(2012)年に緑の国体の会場が上野公園だったことをきっかけに、商店会で歩道を緑化する計画が持ち上がり、
 「上野動物園のパンダが街へ逃げ出した」というコンセプトで、パンダをモチーフとしたトピアリーが設置されました。
 (上野案内所サイトを参照しました。)

   

 左に父パンダ、右に母パンダと子パンダのファミリーです。
 2011年にリーリーとシンシンが上野動物園に来ています。母パンダの肩に乗っているのはシャンシャンですかね。
    


かなりや歌碑 台東区上野公園2-1

 「かなりや」歌碑は、不忍池弁天島への天龍橋手前にある歌碑で、
 昭和35(1960)年に「西條八十会」によって建立されました。
 碑面には忘れた唄を思い出す「かなりや」の4番の歌詞が自筆で刻まれています。

(碑文)
 「うたをわすれた
  かなりやは
  ざうげのふねに
  ぎんのかい
  つきよのうみに
  うかべれば
  わすれたうたを
  おもひだす
     西条八十」

  

 西條八十といえば「ぼくの帽子」が浮かびます。
 「母さん僕のあの帽子どうしたでせうね?
  ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落とした、あの麦わら帽子ですよ。
  僕はあのとき、ずいぶんくやしかった。
  だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。」

 画像は、霧積温泉の金湯館(こちらで記載)の看板と暖簾です。

   

(参考)
 「西條八十記念碑」(新宿駅東口駅前広場)

駅伝の碑(駅伝発祥の地) 台東区上野公園2-14-21

(碑文)
 「駅伝の碑
  駅伝の歴史ここに始まる
  我が国、最初の駅伝は、
  奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が
  大正六(一九一七)年四月二十七日、二十八日、二十九日の
  三日間にわたり開催された。
  スタートは、京都・三条大橋、
  ゴールは、ここ
  東京・上野不忍池の
  博覧会正面玄関であった。」

  


鑑真像 台東区上野公園2

 中国北京市にある中国美術館呉為山館長から東京都に寄贈された呉為山氏制作の鑑真像です。
 令和4(2022)年7月20日に除幕式が行われています。

     

 「鑒真像
  「鑑真像」688年ー763年」
  「呉為山 2022年立」

    


鳥たちの時間 台東区上野公園2

 「鳥たちの時間
   2010
  池田政治」

 「ここ不忍池は、古くから名勝の地として知られ、その起源は縄文の時代まで遡ります。
  対岸の弁天堂や上野の山の木々の後方には、東京スカイツリーも望むことができます。
  また、当地を目指して、多くの鳥たちも飛来してきます。
  四季を通じて美しいこの環境が、末永く守られ続けていくことを願っています。」

 「寄贈 台東区商店街連合会 2012年」

    

    


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