「上野精養軒」手前の崖に「時の鐘」があります。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉」
正岡子規も詠んでいます。
「花の雲 鐘つき堂は 埋れぬ 正岡子規」
正午の鐘撞(かねつき)を、しばし聴きました。
(説明文)
「時の鐘 台東区上野公園四番
花の雲 鐘は上野か 浅草か
芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。
時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永三年(一六二六)になって、日本橋石町三丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内、浅草寺のほか、本所横川、芝切通し、市谷八幡、目白不動、目黒円通寺、四谷天龍寺などにも置かれた。
初代の鐘は、寛文六年(一六六六)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後、天明七年(一七七八)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳造されたものが、現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には「天明七丁未」、下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。
現在も鐘楼を守る人によって、朝夕六時と正午の三回、昔ながらの音色を響かせている。
なお、平成八年六月、環境庁の、「残したい日本の音風景一○○選」に選ばれた。
平成八年七月 台東区教育委員会」
岩倉具視卿の側御用人をしていた北村重威氏(1819-1906)は、
明治5(1872)年2月26日、馬場先門に「西洋館ホテル」を創業するも、開業当日に起きた銀座の大火で全焼しました。
2カ月後に木挽町に仮店舗を再建、明治6(1873)年に采女町に移転し、「精養軒ホテル」と改称(築地精養軒)しました。
この大火では日本初の本格的なホテルだった「築地ホテル」も焼失し、こちらは再建されることはありませんでした。
明治9(1876)年には上野公園開設に伴い、支店「上野精養軒」が開業しました。
精養軒は、明治期における洋食文化の中心となりました。
明治12(1879)年には、グラント将軍の歓迎会が明治天皇御臨席のもと上野静養軒で行われました。
渋沢栄一が御臨幸委員総代を務めました。
大正3(1914)年12月22日には、高村光太郎・千恵子夫妻が上野精養軒で結婚式を挙げています。
関東大震災で築地本店が焼失し、上野精養軒が本店機能を果たすようになりました。
「東亰名所内 上野公園地不忍見晴図」(三代広重 明治9(1876)年 台東区立図書館蔵)
精養軒の庭から不忍池の光景です。
「精養軒」「病院時斗臺」「弁天」の記載が見えます。
不忍池の向こうには富士山が見えます。
庭には、不忍池へ下りる階段が見えます。
「東京名所之内 上野山内一覧之図」(三代広重 明治10(1877)年)
右から「時ノ鐘」「大佛」「西洋軒」と続いて記載されています。
「開化三十六会席 上野 西洋軒」(豊原国周 明治11(1878)年 都立図書館蔵)
明治11(1878)年頃の上野西洋軒が描かれています。
「開化三十六會席 上野 八百善」(豊原国周 明治11(1878)年 都立図書館)
上野公園には「八百善」も出店していました。明治9年開店〜明治14年閉店。
「上野公園内西洋軒」(東京景色写真版 江木商店 明治26年)
明治26年頃の「上野西洋軒」と「庭」です。
「築地静養軒」(東京風景 小川一真出版部 明治44年)
明治42(1909)年に建て替えられた築地静養軒です。
築地川(現在は首都高環状線)に架かる采女橋の西詰に建っていました。
築地静養軒のあった場所には、現在は時事通信ビル(時事通信本社)が建っています。
「静養軒」(日本写真帖 ともゑ商会 明治45年)
築地川に面して建つ静養軒が見えます。
「渋沢栄一の演説 大正2年4月21日築地静養軒」(幕末・明治・大正回顧八十年史第16輯 東洋文化協会 昭和11年)
渋沢栄一も式典や会合などで築地静養軒をよく利用しました。
明治6年に大仏殿が解体され、大仏は露座となります。
正岡子規は露座となった大仏の姿を、満開の桜が雲のように覆っていると句に詠みました。
「大仏を 埋めて白し 花の雲」
関東大震災ではお顔が落ちた大仏、第二次大戦時に胴体を徴用されて、お顔のみが残されました。
胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味で「合格大仏」と呼ばれ祈願されています。
お顔に触れてお参りできる珍しい大仏ですが、新型コロナの影響がここにも出ており、
現在は以下掲示があるように、お顔に触れることはできません。
「新型コロナウィル感染拡大を防ぐ為、大仏に触れてお参りすることをご遠慮下さい。」(掲示)
(説明板)
「幾多の難を乗り越えた上野大仏
この大仏は寛永八年(一六三一)年、越後国村上城主であった堀丹後守直寄公がこちらの高台に、戦乱に倒れた敵味方の冥福を祈るために建立した「釈迦如来」です。京都・方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で作られましたが、明暦・万治の頃(一六五五〜六〇年)木食浄雲(もくじきじょううん)という僧侶により高さ六メートルの銅仏に改められました。
また元禄十一年(一六九八)には輪王寺宮公弁法親王により大仏殿が建立され、伽藍が整いました。しかし大仏は江戸時代以来、地震や火災といった災難に何度も見舞われました。幕末の上野戦争では辛くも被害を免れましたが、明治六年に大仏殿が解体され、さらに大正十二年の関東大震災でついにお顔が落ちてしまったのです。
その後、寛永寺で保管された大仏は再建される計画もありましたが、残念ながら復元されることなく、お体は第二次世界大戦時に供出されてしまいました。昭和四十七年春、再び旧地に迎えられた大仏は、建立当初より大きくお姿を変えましたが「これ以上落ちない合格大仏」として広く信仰を集めています。
寛永寺教化部
大仏を 埋めて白し 花の雲 子規
昭和15年「幻の東京オリンピック」にあわせて再建されようとした大仏でしたが、お体の部分は戦時中の金属類回収令により供出されました。
穏やかなお顔のなかで戦争悲惨さとおろかさをお論じ下さるかのようです。」
<大佛パゴダ>
大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立され、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。
寛永寺の絵師・関良雪の宝篋印塔があります。
(説明板)
「大佛パゴダ
御本尊 薬師瑠璃光如来
御脇侍 日光月光二菩薩(旧上野東照宮薬師堂ご本尊)
沿革
寛永八年(一六三一年)堀丹後守直寄公が釈迦如来尊像を当山に建立せられ、一六六〇年頃青銅の大仏に改鋳された。
大正十二年、大震災で破損のため撤去する。
パゴダ建立
発願者 上野観光連盟
寄進者 大成建設株式会社
昭和四十二年七月吉日竣工
東叡山寛永寺」
「上野大仏」(最新東京名所写真帖 小島又市 明治42年)
「首の落ちた上野の大仏」(関東大震災写真帖 日本聯合通信社 大正12年)