Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 霊岸島(霊巌島)

  ○ 霊岸島(霊巌島)とは

 【越前堀】
  ○ 越前堀児童公園
    ・霊巌島之碑
    ・越前堀跡
    ・石の由来
    ・出土した越前堀の石垣石
  ○ 越前堀の間知石

 【新川酒問屋】
  ○ 新川之跡
  ○ 河村瑞賢屋敷跡

 【江戸湊】
  〇 亀島川水門
  ○ 徳船稲荷神社
  ○ 江戸湊発祥跡
  〇 向井将監ゆかりの地
  ○ 霊岸島量水標モニュメント
  ○ 一等水準点交無号


〇霊岸島(霊巌島)とは

 「霊岸島(霊巌島)」は、江戸幕府が埋め立てた「中州(人工島)」です。
 亀島川沿岸部は埋立が不十分で足場が悪く、「蒟蒻島」と俗称され、岡場所「蒟蒻島」が形成されました。
 地名由来の「霊巌寺」(こちらで記載)は、「明暦の大火」(1657年)により1658年に江東区白河に移転しています。


○越前堀児童公園 中央区新川1-12-1

 霊巌島の碑や越前堀の石垣石などがあります。

   

<霊巌島之碑>

   

(説明板)
「霊巌島の由来
 当地区は、今から三百七、八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。
 寛永元年(一六二四)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の一歩を踏みだし、同十一年(一六三五)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、二万七千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
 邸の北、西、南3面に船入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。
 明暦三年(一六五七)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町町が、替地として集団的に移ってきた。
 明治大正年間には富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊岸島町、銀町。東港町、新船松町、越前堀、南新堀の十三町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和六年(一九三一)七月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川一、二丁目・霊岸島一、二丁目・越前堀一、二、三丁目と改称され、更に昭和四六年住居表示制度の実施により新川一、二丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
  昭和五十二年三月  霊巌島保存会」

  

<越前堀跡>

(説明板)
「越前堀跡   所在地 中央区新川一、二丁目地域
 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも建設工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は十二〜十五間(二○〜三○m程)もあり、運河としても用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
 明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられて行きます。大正十二年(一九二三)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、 「新川」となって現在に至っています。
 今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園にみられるのみとなりました。
  平成十七年三月  中央区教育委員会」

   

「江戸切絵図」

 「松平越前守」中屋敷と越前堀部分の抜粋です。

  

<石の由来>

(説明板)
「石の由来
 この公園で使用した石は、昭和六十年東京都が日本橋川右岸改修工事をした際雉子橋付近から発生した石垣の一部です。
 徳川幕府は 慶長十年(一六○五) 第二期江戸城建設にあたり、江戸城およびお濠の石垣採取輸送を中国、四国、九州の三十一大名に命じました。石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され江戸まで運ばれましたが、石の切り出し、海岸までの輸送、陸揚げ等一連の作業は困難をきわめ、たいへんなお金と労力と犠牲がはらわれています。
 また石には、各大名、組頭、石工等のものと思われる紋や目印等が刻まれているものもあります。
    中央区土木部公園課」

   

<出土した越前堀の石垣石>

 明確な矢穴が認識できる石があります。

   

(説明板)
「出土した越前堀の石垣石
 ここに展示した石は、「石垣石」とい呼ばれる越前堀の護岸に用いられたものです。平成18年、新川二丁目で行われた遺跡の発掘調査で見つかりました。その一部を、ゆかりのある当公園内の堀跡付近に移設しました。
 江戸時代、この辺りは越前国福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも土木工事や遺跡の調査中に出土することがあります。堀の幅は12?15間(20?30m程)もあり、運河としても利用され、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
 明治になり、屋敷の跡地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられていきます。大正12年(1923)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、「新川」となって現在にいたります。
 今では往時をしのぶ「越前掘」の名は、この区立越前堀公園にみられるのみとなりました。
 なお、この公園は、関東大震災後につくられた「帝都復興小公園」の一つである「越前堀公園」からはじまります。
  平成20年3月 中央区教育委員会」

   


○越前堀の間知石 中央区新川2-17-12

 新川二丁目交差点の植え込みに「越前堀の間知石」があります。

(説明板)
「越前堀の間知石
 江戸時代、この辺りには越前福井藩・松平家の中屋敷がありました。
 屋敷は隅田川に面しており、三面にお堀がめぐらされていました。このお堀は「越前堀」とよばれ旧町名のもとにもなりました。
 この植え込みに配置されている大きな間知石は、お堀の石垣の根石として用いられたものと推測されます。
 左の図は築地八町堀日本橋南絵図全(万延元年東京都立中央図書館所蔵)より抜粋したものに現在の道路を重ね合せたものです。
  東京都第一建設事務所」

    


〇新川之跡 中央区新川1-29-8 新川公園

 新川公園に「新川の跡の碑」があります。
 新川は、万治3(1660)年に河村瑞賢により開削され、昭和23(1948)年に埋め立てられました。
 「新川は下戸の建てたる蔵はなしいづれ上戸が目当てなりけり」

   

<新川之跡>

(碑文)
 「新川之跡
 「萬治三年(一六六○) 河村瑞軒傳開鑿此地
  昭和二十三年(一九四八) 以戦災焦土埋之」
 (※「瑞賢」は「瑞軒」とも書きます。)

(説明板)
「新川の跡  所在地 中央区新川一丁目地域
 新川は、現在の新川一丁目三番から四番の間で亀島川から分岐し この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約五百九メートル、川幅は約十一メートルから約十六メートルと、狭いところと広いところがあり、西から、一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。
 この新川は、豪商河村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(一六六○)に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸に建ち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれました。
 昭和二十三年、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。
  平成六年三月  中央区教育委員会」

    

「江戸名所図会 新川 酒問屋」

 「新川酒問屋」の酒樽は、「剣菱」が多く描かれています。
 店内に「剣菱」、舟に山積みされているのも「剣菱」です。

    

<錦絵の広告>

 「御蔵前八幡宮ニ於面 奉納力持」(歌川国安)
  錦絵に描かれた「男山」「剣菱」「瀧水」の広告です。
  最後の2枚は上下ひっくり返して拡大しています。

     

 男山と剣菱は伊丹酒で、瀧水(日本橋新和泉町四方酒店)は江戸の酒です。
 伊丹酒の「剣菱」は、「水」にこだわり剣菱のラベルに「瀧水」の二文字を加えていたので(現在も)、
 「瀧水」は添え書きの可能性もありますが、男山と同等の扱いなので、江戸の酒「瀧水」でしょう。

 「男山」は、徳川将軍家の「御膳酒」に指定された銘酒でしたが、明治初頭に蔵元が廃業しています。

 「江戸買物独案内 下巻」(中川五郎左衛門編 山城屋佐兵衛他 文政7年)に「瀧水」の記載があります。

  

「絵本江戸土産 新川 新堀 霊岸島」(広重)

 挿絵には「此所は鉄炮洲の海より艀ぶねの入る小川にして両岸の土庫軒をつらねて商賈売買輻輳の地なり 風景雅ならざれどもまた俗ならず」とあります。
 新川には手前から「一の橋」「二の橋」「三の橋」が見えます。
 新川河岸には酒問屋の土蔵が立ち並び賑わいました。

  

「絵本江戸土産 霊岸嶋 湊橋」(二代広重)

 手前に新堀(日本橋川)に架かる湊橋、中央奥に亀島川に架かる霊岸橋が見えます。
 湊橋の上流にある茅場河岸(表茅場町)も、酒問屋の土蔵が立ち並び賑わいました。
 また湊橋の下流の新堀河岸も、酒問屋の土蔵が立ち並び賑わいました。

  

「江戸名所図会 六月十五日 山王祭 其二 其三」

 山王祭の挿絵ですが、日本橋川の様子がわかります。
 日本橋川左岸を行く行列は、「はこさきはし」を渡り、「湊橋」を渡り日本橋川右岸に出て、方向転換し、
 「れいがんばし」を渡って、日本橋川右岸を進んでいます。

  

「江戸切絵図」

 酒問屋が立ち並んでいた「新川河岸」「新堀河岸」「茅場河岸」部分の抜粋です。
 日本橋川は、亀島川との分流地からは「霊岸島新堀」とも呼ばれました。

  

「江戸の華名勝会 千 二番組 市川小団次/新川酒の入舟/新川」(豊国・為斎)

 「酒の入舟」という表題の葛飾為斎の風景画は、酒問屋の蔵が立ち並ぶ新川河岸に「下り酒」が納められる光景が描かれています。
 新酒の入荷は、江戸の年中行事の一つでした。
 上方(灘や伊丹など)で作られた「下り酒」は樽廻船で運ばれ、鉄砲洲湊で小形船に積み替えられ、新川河岸の酒問屋に納められました。

   

「新酒番船入津繁栄図」(落合芳幾 西宮市立郷土資料館蔵)

 江戸時代の年中行事である「新酒番船」の情景を描いています。
 「新酒番船」は、その年の新酒の江戸への到着の順位を競った行事です。
 左下隅の枠内には、一番船の入津日と時刻、「惣一番 藤田(樽廻船問屋) 勝六(船頭の名前)」が記されています。

  

 画面のあちこちに見える赤服の集団は、到着した船の乗員です。
 「惣一番」の幟を持ち、太鼓を叩きながら喜び踊っています。

  

 新川には、右から「一の橋」「中の橋」「三の橋」が見えます。

  

 「霊岸橋」上流の日本橋川沿いの茅場町にも酒問屋の蔵が連なっています。

  

「日本山海名産図会」

 米洗い、麹醸(こうじづくり)、(もとおろし)、酘中(そえなか)、もろみかきから圧搾してしぼるまでの酒造を描いています。

    

   

「大日本物産図会 摂津国伊丹酒造之図」(三代広重)

 清酒の産地である摂津国伊丹の酒造りの様子を描いています。

  

「大日本物産図会 同新酒荷出之図」(三代広重)

 酒を樽詰めして運び出す荷出風景を描いています。

  


〇河村瑞賢屋敷跡 中央区新川1-8-2

 河村瑞賢の屋敷が、霊岸島にありました。
 (参考:河村瑞賢の墓所について記載済)

 河村瑞賢
  元和4年2月15日(1618年3月11日)〜元禄12年6月16日(1699年7月12日)

(説明板)
「河村瑞賢屋敷跡
    所在地 新川一丁目八番地域
 江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(一六一八〜一六九九)の屋敷がありました。
 瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦三年(一六五七)の江戸大火の際には、木曽の木材を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。
 瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。
 斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(一六八四〜一六八八)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川一丁目二十三番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかって新川一丁目七番・九番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。
 『御府内沿革図書』延宝年間(一六七三〜一六八一)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。
  平成十五年三月  中央区教育委員会」

   


〇亀島川水門 中央区新川2-31-22

「亀島川水門
 亀島川は、日本橋川から分かれ、隅田川へ合流する全長1kmほどの川です。この川の上流端には日本橋水門(1971年完成)が、下流端には亀島川水門(1968年完成)があります。高潮あるいは津波時には、両水門を閉鎖して亀島川流域住民の生命・財産を守ります。」

   

    


〇徳船稲荷神社 中央区新川2-20

 南高橋の霊岸島側にあります。

(説明板)
「徳船稲荷神社縁起
 徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方堀割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船の舳を切って彫られたものと伝えられる。
 明暦三年、世に云う振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前難を免れ、大正十一年に至るまで土地の恵比寿稲荷に安置された。関東大震災では再度救出され、昭和六年隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和二十九年同処に再現のあと平成三年中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。
 例祭は、十一月十五日である。
    新川二丁目越一町会崇敬会」

    


〇江戸湊発祥跡 中央区新川2-31-1

 亀島川河口に「江戸港発祥跡」碑があります。

    

(碑文)
 「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。
  昭和十一年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった。」

 「東京京橋ライオンズクラブ
  結成三十五周年記念
  平成十二年一月吉日 建立」

 「江戸湊発祥跡」

 「離島への汽船発着所として東京湾汽船は明治二十二年 この地に設立された。町には六軒の旅館があり 島の人々で賑わった
  旧町名越前堀は 越前松平家の周囲に堀があったことに由来する
  地名将監は幕府奉行職御船手(海兵団)向井将監の屋敷跡に由来する
  霊岸島検潮舎は 海抜の原点で、この大川端のテラス内にある
    越前堀将監二一号 住民建立」

 かつて、「東京湾汽船会社」(渋沢栄一発案により誕生。現:東海汽船)の桟橋が、
 将藍河岸の御船手組屋敷の跡地にありました。

    


〇向井将監ゆかりの地

<御船手屋敷 向井将監/船見番所>

 「江戸切絵図」から、「御船手屋敷 向井将監」部分の抜粋です。
 「船見番所」が置かれていました。
 亀島川左岸は「将監河岸」と呼ばれ明治末期まで地名が残っていました。

  

「江戸名所図会 湊稲荷社」

 「湊稲荷社」の上、亀島川の江戸湊への河口に「船見番所」が描かれています。
 江戸湊には多くの廻船が帆を下ろしています。
 (解説文)
 「此地ハ廻船入津の湊にして 諸国の商船普くここに運ひ 碇を下して此社の前にて積所の品を悉く問屋へ運送す
  此故にや近世吉田家より湊神社の号を贈らるる 当社は南北八丁堀の産土神なり」

   

「東都名所 永代橋全図」(広重)

  

 佃島と鉄砲洲の間の江戸湊には、多くの廻船が停泊しています。
 上方(灘や伊丹など)で作られた「下り酒」は樽廻船で運ばれ、
 江戸湊で小形船に積み替えられ、新川河岸等の酒問屋に納められました。

  

「名所江戸百景 鉄砲洲稲荷橋湊神社」(広重)

 廻船の大きな帆柱の先には、酒樽を積んだ小舟が見えます。

  

<霊岸島汽船発着所>

 明治22(1889)年には、屋敷跡に「東京湾汽船会社」(渋沢栄一発案により誕生。現:東海汽船)の「霊岸島汽船発着所」が置かれ、
 昭和11(1936)年まで伊豆諸島などへの定期航路の出発点として賑わいました。

<テラス案内板>

「�@向井将監ゆかりの地
 1590年、豊臣秀吉公が小田原北条氏を征伐したとき、向井忠勝は徳川家康公の武将として東海道の水軍をひきい、北条方の水軍鵜殿兵部を破りました。さらに慶長・元和両度の大坂陣には、同様に水軍をもって淀川河口の防備にあたり、大いに軍功を賞されました。忠勝はこれらの功により、代々将監と称して幕府水軍の総帥的地位につきました。(株式会社名著出版刊『東京ふるさと文庫�H江東区の歴史』より)

 �A江戸湊の碑
 江戸時代、江戸に集まる物資は主として舟運によるものでした。関西方面をはじめ各地方から江戸に物資が集中し、日本橋、京橋地区の河岸地に陸揚げされました。幕末に横浜が国際貿易港として開港したのに対して、東京の開港は遅れ、ようやく1941年に開港の運びとなりました。」

    

<説明板>(亀島橋に設置)

「御船手組(将監河岸)
 江戸初期に隅田川に至る亀島川の下流左岸(新川側)に、幕府の御船手組屋敷が設置され、戦時には幕府の水軍とし、平時には天地丸など幕府御用船を管理した。
 大阪の陣で水軍を率いて大阪湾を押さえた功績により、御船手頭に任ぜられた向井将監忠勝(1582〜1641)を始め、向井家は代々、将監を名乗り御船手頭を世襲したことから、亀島橋下流から隅田川に至る亀島川の左岸(新川側)を将監河岸と呼ぶようになった。
 また 1889年(明治22年)に東京湾汽船会社が設立され、御船手組屋敷跡に霊岸島汽船発着所が置かれ、房総半島、伊豆諸島、大島、八丈島等に向けて海上航路を運営し、明治・大正・昭和初期にわたり港町の伝統を引き継いでいった。」

  

「観古東錦 将軍家船遊之図」(東洲勝月 明治22年 都立図書館蔵)

 説明板に掲示の浮世絵です。
 向井将監の管理する「天地丸」「第二鳳凰丸」「第三八幡丸」が描かれています。

  


〇霊岸島量水標モニュメント 中央区新川2-31-1

 水準原点の検証をするための観測所としては、
 現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
 隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6(1994)年5月に元の位置から約36m下流に観測所は移設されており、
 こちらは歴史的経緯を伝えるためのシンボルとなります。

     

(説明板)
「日本水準原点と霊岸島水観測所
    国土交通省関東地方整備局
    荒川下流河川事務所
1.水準原点とは
 現在日本の水準原点は、測量法施行令第2条により東京都千代田区永田町1丁目1番地内にある日本水準点で、その高さは東京湾平均海面上24.4140mと定められています。
(東京湾平均海面をT.P.0mとして算定しています。)
この水準原点の高さに基づいて、例えば、山の高さや土地の高さが「標高○○m」というように求められているのです。

2.日本の近代測量と霊岸島水位観測所について
 日本の近代測量は明治初期に始まりました。当時の測量方法は主要河川の河口部に水位を測るための「量水標」を設け測量を行うときには近くの「量水標」の平均海面データを用いていました。量水標」の主なものは、明治5年に利根川河口の「銚子量水標」が日本初で、翌明治6年にここ霊岸島に、明治7年に江戸川と淀川の河口にと、全国の主要河川でそれぞれ設置されました。
 霊岸島水位観測所の零位は、A.P.0m(エーピーゼロ、A.P.はArakawa Peilの略、Peilはオランダ語で「基準」あるいは「標準」の意)と呼ばれるようになりました。
 その後、測量技術などの進歩に伴い、平均海面のデータの全国統一が考えられ、そのとき選ばれたのがここ霊岸島水位観測所だったのです。

3.東京湾平均海面と日本水準原点
 平均海面を算出するために霊岸島水位観測所で明治6年6月から明治12年12月の間、4ヶ月間の欠測を除き6年3ヶ月の毎日の満潮位と干潮位を測定しその平均値を求め、さらにその平均値を算出したのです。そのときの値が霊岸島水位標の読み値で1.1344mでした。これを東京湾平均海面すなわちT.P.0mとし全国の高さの基準として定めたのです。そしてその後の明治24年5月に東京都千代田区永田町に「日本水準原点」が設置され、このとき霊岸島水位観測所から原点までの水準測量を行い、日本水準原点の高さ24.5000mを基準点としたのです。しかしこの値は、大正12年に起きた関東大震災の影響により昭和3年に24.4140mに改訂され現在に至っています。

4.現在の霊岸島水位観測所
 日本の水準原点を生んだ霊岸島水位観測所も、その後の東京湾の埋立てや隅田川の河川水の影響があり、水準原点の検証をするための観測所としては、理想的な位置とは言えなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
 現在の霊岸島水位観測所は、荒川水系の工事実施基本計画や改修計画の策定及び改訂のための基礎データの観測を続けていますが、隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設しました。
 元の観測所の位置には、その歴史的経緯を長く後世に伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。また、新しい観測所の3角形のフレームは、土木や建築の設計図などに高さを表す記号として用いられる▽をイメージし、その下端部はA.P.0mを指し、その一辺の長さは観測所位置のある東経139°47’にちなみ13.947mとしています。
 観測室については、斜方十二面体という形で立方体それぞれの面に勾配45°の四角錐を付加したような形をしていて、川に沿って視点を移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見えるものです。」

    


〇一等水準点交無号 中央区新川2-32-4

 明治24年3月に几号水準点であった霊岸島旧点に替わる堅固な水準点として
 「霊岸島新点・交無号」が設置されました。(霊岸島几号水準点は大正時代に亡失しています)。
 「日本水準原点」(永田町)の標高は、交無号からの測量で決定されました。
 日本水準原点については、こちらで記述済です。

(説明板)
「一等水準点「交無号」 標高 三・二四m
 水準点とは、精密に測られた高さの基準点です。全国の主要道路に約2キロメートルおきに設置されており、各種測量の基準や地殻変動の検出に利用されています。
 日本の高さの基準である東京湾平均海面(標高0m)は、明治六年から十二年の間に霊岸島で行われた潮位観測によって決定されました。この結果は、潮位観測に用いられた量水標近傍の「内務省地理局水準標石(霊岸島旧点)」に取り付けられましたが、明治二十四年に新しい基点として、この「霊岸島新点・交無号」が設置されました。同年、国会議事堂前の地に建設された日本水準原点の標高は、この水準点からの測量で決定されています。
 水準点番号「交無号」の由来は、水準路線が交差する点であることを示す「交」と、「0」を意味する「無号」を合わせたものです。
 この水準点は、まさに日本の高さの出発点として歴史あるものです。
 現在の水準点は、平成十八年にこの地に移転されました。標石は昭和五年の移転時に作られたもので、小豆島産の花崗岩が用いられています。
  平成二十一年二月  国土地理院関東地方測量部」

      


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