○ 岩槻城址
○ 久伊豆神社
○ 太田道灌公之像
○ 芳林寺
○ 岩槻郷土資料館
岩槻城は太田道灌の築城との江戸時代からの従来説に対し、現在は成田氏築城説が有力なようです。
太田道灌の曾孫の岩槻城主だった太田資正は、令和4年2月に生誕500年を迎えました。
(説明板)
「埼玉県指定史跡岩槻城跡
岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に築かれたといわれています。江戸時代には江戸北方の要として重要視され、有力譜代大名の居城となりました。
戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。本丸・二の丸・三の丸などの城の中心部のある主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから構成されていました。さらに城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家、寺社地などからなる城下町が形成・配置され、その周囲を巨大な土塁と堀からなる大構が取り囲んでいました。
この岩槻公園のあたりは、そのうちの新曲輪部分にあたっており、その大部分が埼玉県史跡に指定されています。新曲輪は戦国時代の1580年代に、豊臣政権との軍事対決に備え、その頃岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防衛力を強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪という二つの曲輪が主郭部南方の防備を固めていました。
明治維新後、開発が進んで城郭の面影が失われている主郭部とは対照的に新曲輪部分には、曲輪の外周に構築された土塁、発掘調査で堀障子が発見された空堀、外部との出入り口に配置された二つの馬出しなど、戦国時代末期の城の遺構が良好な状態で保存されています。 さいたま市」
<岩槻城裏門> さいたま市文化財
(説明板)
「岩槻市指定文化財 岩槻城裏門
この門は岩槻城の城門である。岩槻城の裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかではない。
現状では、門扉を付けた本柱と後方の控柱で屋根を支える薬医門形式となっている。間口約三メートル、奥行約二メートルであり、向かって左側袖塀に門扉左に潜戸を付属している。屋根は切妻造で瓦葺き。
左右の本柱のホゾに記された墨書銘により、江戸時代後期の明和七年(一七七〇)に当時の岩槻城主大岡氏の家臣武藤弥太夫らを奉行として修造され、文政六年(一八二三)に板谷官治らを奉行として修理されたことが知られる。数少ない岩槻城関係の現存遺構の中でも、建築年代の明確な遺構として貴重なものである。
廃藩置県に伴う岩槻城廃止後、民間に払い下げられたが、明治四十二年(一九〇九)以降、この門を大切に保存して来られた市内飯塚の有山氏から岩槻市に寄贈され、昭和五十五年(一九八〇)岩槻城跡の此の地に移築された。なお、門扉右の袖塀はこの時付け加えられたものである。
文化財に関する問合せ先・・・さいたま市教育委員会文化財保護課」
<人形塚>
昭和46(1971)年に当時の岩槻人形連合協会が建立。ここで人形供養祭が行われます。
(説明板)
「人形塚について
昭和四十六年(一九七一年)当時の岩槻人形連合協会は十月十五日を「人形の日」と決め、埼玉百年を記念してこの岩槻城の一角に人形塚と人形の碑を建立いたしました。人形塚は、郷土の日本画家、関根将雄画伯のデザインによりもので、製作に当たっては、地元の若き人形職人等の熱き協力がありました。
男雛、女雛が仲むつまじく寄りそった姿は「人」を形象し世界の平和と郷土岩槻の限りなき発展を願っております。当地の人形作りの起源は、江戸時代のはじめ日光東照宮造営の頃(一六三○年)とされています。
その後幾とせ、人形作りに心血を注ぎ、いそしんだ先輩父祖の霊を慰め、また多くの人形師が心をこめて作り上げかつ人々に愛された人形達の冥福を祈り、この人形塚はつくられました。
平成四年三月末日 埼玉県観光連盟 岩槻市観光協会 岩槻人形協同組合」
<岩槻城址記>
大正14(1925)年10月、岩槻町の建立です。
<東武特急「きぬ号」>
本殿南に参道。参道入口に「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社」の大きな社号標。
参道は鬱蒼とした埼玉県指定「社叢ふるさとの森」に覆われています。
(掲示抜粋)
「岩槻久伊豆神社由緒
久伊豆神社は、今を去る千三百年前、欽明天皇の御代出雲の土師連の創建したものと伝えられる。その後相州鎌倉扇ヶ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。江戸時代歴代城主の崇敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除けとして祈願せられた。
神社境内は城址の一部で、元荒川が東北に流れ、市内でも数少ない貴重な社叢として知られている。
明治八年一月十一日、火災に遭い、時の城主、町民より寄進された社殿等烏有に帰し、現社殿は、その後氏子崇敬者の誠意により再建されたものである。現在神域は次第に整い、神威はいよいよ高く神徳ますます輝きわたり岩槻市総鎮守として秘匿の崇敬をあつめている。
岩槻市観光協会」
<石碑>
石碑が色々とあります。文化2年銘の「猿田彦大神」。力石もありました。
<神苑>
参道左手に神苑(枯山水)。
平成三十年四月十九日に植樹された、朝香宮殿下孔雀奉納八十年祭記念植樹「しだれ桜」があります。
<明戸庚申>
狛犬に石燈籠が載っています。
徳川将軍霊廟の奉献石燈籠によく似ていて元の銘が削られているので転用かと思いましたが、
裏面には奉納年が刻まれているので、どうでしょうかね。
<孔雀小屋と鶏>
1938(昭和13)年3月9日、朝香宮殿下が岩槻にご来臨の折、孔雀三羽を奉納されたのが始まりです。
小屋から出てきた鶏が、境内を闊歩しています。
<日露戦役紀念碑>
孔雀小屋の横に、「日露戦役紀念碑」があります。
陸軍大将寺内正毅の揮毫です。大正5年5月14日建立。
<拝殿/本殿>
拝殿は、平成26年10月19日竣工。
岩槻黒奴の顔出しパネルがあります。
<伏見稲荷神社>
<厄割り石>
<榛名神社>
本殿裏に榛名神社。榛名神社の前にあった大榊は、平成30年に枯れたとのことです。
<北野天満宮>
「撫で牛」「叶い戌(子育て戌)」
コロナのご時世、牛は撫でないでお祈りしましょうとの掲示を見ることがありますが、
ここは掲示がないですね。よく撫でられる部分の色が変わっています。
令和2(2020)年2月22日、さいたま市岩槻人形博物館と交流会館がオープンしました(岩槻区役所跡)。
笠をかぶり弓矢と太刀を持っている太田道灌像ですが、
他の像と違って右手に扇子を持っているので、文人の道灌と言われています。
昭和60(1985)年、岩槻ライオンズクラブ寄贈、制作者は作島栄治氏です。
文明18(1486)年に太田道灌が暗殺された時、道灌の父道真と養子の太田資家(岩槻城主)が伊勢原に行き、
道灌の遺骨や遺髪をもらい受け、越生町の龍穏寺と芳林寺(当時松山の地蔵寺?)に分けられて葬られました。
永正17(1520)年8月に火災に罹ったため太田資正が松山から道灌の遺骨を当地に移し、
資正の子氏資が母の芳林尼の追慕のため、永禄10(1567)年に寺名を芳林寺としたと伝えられています。
(言い伝えが色々ありよくわかりません。)
境内には「やまぶきの寺」石碑があります。やまぶきの寺とも呼ばれているようです。
(碑文)
「曹洞宗太平山芳林寺由緒
当寺は、釈迦如来を本尊とし、静岡県藤枝市にある龍池山洞雲寺の末寺にして、覚翁文等禅師(洞雲寺四世)を開山とする禅刹である。
境内墓地から応永、享徳年号の墓石が発見されていることから、古くから当地に寺院が存したものと思料されるが、所伝によると、比企郡松山城に在った太田道灌公が延命地蔵尊を尊信し、松山城を築くにあたり堂宇を建てこれを祀り太平山地蔵堂と称したが、その後、文明十八年(一四八六年)七月二十六日道灌公が主君・扇ヶ谷上杉定正に謀殺されるや、その遺骨(遺髪とも云う)を堂側に埋葬して、香月院殿春苑道灌大居士と諡したのであった。
しかし、永正十七年(一五二〇年)八月火災に罹り烏有に帰したため、その後、曾孫・太田三楽斎資正公は居城であった太田道真公・道灌公父子が築城した岩槻城下の当地にこれを移し、再建全く成って大鐘を掛け宝殿が空にそびえたという。そして五十石を寄進され常住の資に充てられた。
なお、道灌公が相州伊勢原の上杉定正の館で暗殺された時、父の太田道真公と道灌公の養子・太田資家公(岩槻城主)が、道灌公の遺髪や分骨をもらい受け、越生町の龍穏寺と岩槻の芳林寺に埋葬したとの言い伝えもある。
資正公の正室であり、岩槻城主・太田氏資公の母公が生前に禅門に帰依して芳林妙春尼と号していたが、永禄十年(一五六七年)三月八日逝去するにおよび陽光院殿芳林妙春大姉と諡し、開基となしてその法号に因み、寺号を芳林寺と改めたのであった。
また氏資公は北条氏康の娘(長称院)を妻に迎え、小田原北条氏に属していたが、永禄十年八月二十三日里見氏との上総三船山の合戦で、殿軍を努め討死したので、その亡骸を当寺に埋葬し太崇院殿昌安道也大居士と諡した。
天正十八年(一五九〇年)徳川家康公関東入国に伴い、高力清長公が岩槻城主に封ぜられるや、当寺の荒廃しているのを嘆き大修理を加え復興した。
そして、嫡男・高力正長公が慶長四年(一五九九年)三月二十二日卒したとき当寺に葬り、快林院殿全室道機大禅定門と諡したのである。この間いくばくもなくして火災に遭い堂宇悉く灰燼に帰したが、高力忠房公がこれを再び復興造営した。
それ以来年月を歴てまたも文化八年(一八一一年)二月十八日焼失し、現在の本堂は天保十二年(一八四一年)五月再建したものといわれる。
明治四年(一八七一年)県庁が一時岩槻に置かれた際、一部仮庁舎として使用されたとも伝えられている。
昭和五十三年十月 太平山芳林寺 岩槻市観光協会
追記 平成二十三年三月の東日本大震災により被災した為、現在の本堂は、平成二十九年十月に新築落慶したものである。
平成二十年八月盂蘭盆再建」
(説明板)
「岩槻城・太田道灌・芳林寺
岩槻城は、室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉家)持朝の命を受け、長禄元年(一四五七)太田道真・道灌父子が築城したと伝えられる。
文明十八年(一四八六)、太田道灌が神奈川県伊勢原にあった主君・上杉定正の館で暗殺された時、父の道真と道灌の養子・太田資家(岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌の遺骨や遺髪をもらい受けてきたと言われている。
そして、それらは埼玉県越生町の龍穏寺と芳林寺に分けられて丁重に葬られ、今日まで供養されている。
また、芳林寺は太田三楽斎資正が、東松山城(埼玉県東松山市)の城代難波正直の娘婿として活躍していた頃に、同地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したと伝えられ、資正の嫡男・太田氏資(岩槻城主)の時代に名前を地蔵堂から「芳林寺」と改めて、母・芳林妙春尼の御霊をはじめ、多くの合戦で亡くなった将兵や町内外の檀家の方々のご先祖の御霊を供養して、現在まで続いている由緒ある禅寺である。」
<太田道灌公築城550年記念 岩槻城復元図>(平成19年7月26日)
<武州岩槻城 阿部氏在城五十九年>
<道灌松>
「道灌松」の石碑と、松があります。由来は何でしょう?
<太田道灌騎馬像>
平成19(2007)年に騎馬像が建てられました。
葛飾区柴又在住の彫刻家である冨田憲二氏と山本明良氏の両名(彫刻工房十方舎)によって作られました。
「江戸城の石」石標があります。江戸城の石も用いて、細部にもこだわりの騎馬像です。
(説明板)
「この太田道灌公の騎馬武者像は、東京都葛飾区柴又在住の世界的にも著名な彫刻家である
冨田憲二・山本明良両先生(彫刻工房、十方舎)の作品です。」
<太田道灌公鷹狩之像>
富田憲二・山本明良の作、平成26(2014)年の建立。
<太田氏資公像>
富田憲二・山本明良の策、平成15(2003)年の建立。
太田氏資像は、母である芳林妙春禅尼像に向いています。
<芳林妙春禅尼像>
富田憲二・山本明良の作、平成16(2004)年の建立。
太田氏資の母で 当山の開祖です。
<道標>
「京 三条大橋百四十二里」「白鶴城本丸半里」「江戸日本橋九里」
<地蔵堂・位牌堂>
<弁天堂/弁財天尊像>
<白山堂>
白山堂の標石には「金毘羅大権現、白山大権現、三峯大権現」とあるので、
この三社を祀っているようです。
<寶聚稲荷社>
<埼玉県庁が最初に設置された芳林寺>
(説明板)
「埼玉県庁が最初に設置された芳林寺
明治四年(一八七一年)十一月十四日、埼玉県・入間県の設置が太政官布告で令達された際、県庁の位置は埼玉県は岩槻とされ、ここ芳林寺に最初の県庁舎が設置されました。
当時の岩槻は城下町として賑わっていましたが、岩槻で県庁の事務を執ったのはわずかの間、まもなく浦和に移転してしまいました。
その当時の逸話が、北條清一氏の著書に記されています。
「廃藩と剣客の悲哀」
岩槻町長秋葉保雄氏の話
廃藩置県となって、「埼玉県庁を埼玉郡岩槻町に置く」ということになって、県庁の仮庁舎は岩槻町芳林寺内に置かれたものです。その頃は、南埼、北埼に分かれていなくて埼玉県埼玉郡と呼んでいた。岩槻藩は二万三千石大岡司膳正の城下町であった。
明治四年、芳林寺に仮庁舎が置かれ、初代の県令(知事)は鹿児島県士族野村盛秀が任命され、大書記官が白根多助、大参事が吉田清秀という人だった。大岡藩からも平野正信児玉親廣などという人材が県吏に採用された。
当時の話として、岩槻町は県庁を邪魔者扱いにして追っ払ったので、県庁が浦和に移されたように伝えられているが、これはとんでもない間違いで、事の真相はこうなんです。
藩士で家老格の家柄ー名前は憚るが剣道の達者な男があった。旧幕時代は剣道ができれば立派に家門が立っておったのであるが、廃藩置県後は剣術では飯が食えない。この男が県庁へ仕官したい希望を抱いていたが、頭が出来ないので採用されない。それを遺恨に思って、芳林寺の仮庁舎へ長刀の落し差しかなんかで出かけて、さんざん嫌味を並べて毎日のように暴れたのですな。藩中で相当努力があったし、うるさく暴れるので、こんなうるさいところへ県庁は置かなくてもよいとついに移転となったものです。この男が嫌味を並べて暴れさえしなかったら、岩槻は県庁所在地として、今頃は県の首都で大いに発展していたろうと思うのです。そう思うと、この没常識漢の仕打ちがうらめしくも思われる。
「武州このごろ記」北條清一著 日本公論社 昭和十年七月刊」
<芳林寺境内墓地>
<田中保画伯の略歴>
墓地手前にあります。
<芳林妙春尼御霊廟 太田道灌公御霊廟 太田氏資公御霊廟>
(碑文)
「太田道灌公事績
太田資清入道道真の嫡男、源六郎資長従五位下、左衞門大夫、備中守、のちに剃髪して道灌と号した。
扇谷上杉定正の家宰として仕え、長禄元年(一四五七)、父道真とともに江戸城・岩槻城・川越城を築き、各地の乱を平定するなど、主家や関東の安寧のためその知略の才をいかんなく発揮した。
また、つねに古今の兵書を読んで軍法の道に達し、和歌や漢籍にも通じるなど文武兼備の名将として名高い。
しかし、道灌公の威徳を恐れた山内・扇谷の両上杉氏により、「謀反の企てあり」として、文明十八年(一四八六)七月二十六日、相州糟屋の上杉定正の館において謀殺される。享年五十五才。
亡骸は荼毘に付したのち、分骨をゆかりの地である岩槻の當寺にも埋葬したと伝えられる。
大正七年十一月十八日追贈従三位
法名 香月院殿春苑道灌大居士 當寺三十二世誌」
(碑文)
「太田氏資公事績
天文十二年(一五四三)岩槻城主太田三楽斎資正の嫡男として誕生。初名源五郎資房。
武勇に勝れた若武者であったが、関東における情勢の変化により父資正と政治的に対立。家臣たちに推戴され永禄七年(一五六四)岩槻城主となり、領地の経営に力を尽した。
小田原北条氏に属し、北條氏政の妹を妻に迎え、名を資房から氏資と改める。
永禄十年(一五六七)八月二十三日、里見氏との上総三船台の合戦で、北条軍の殿軍を努め、家臣五十三騎と共に討死享年二十五才。従五位下大善大夫。
芳林寺開基。
法名 當寺開基太崇院殿昌安道也大居士 當寺三十二世誌」
「太田氏資供養塔」
岩槻郷土資料館の建物は、昭和5(1930)年に建てられた岩槻警察署旧庁舎です。
国の登録有形文化財です。資料館は、入館無料です。