Discover 江戸史蹟散歩
 
 新寺町(松が谷 東上野 西浅草 元浅草)

 【旧松葉町 新寺町】
  ○ 矢先稲荷神社
  〇 下町まちしるべ 旧 松葉町
  ○ 聖徳寺(玉川兄弟墓)
  ○ 本覚寺
  ○ 曹源寺(かっぱ寺) 別頁
  ○ 海禅寺梅田雲浜墓

 【旧浅草北清水町 新寺町】
  ○ 源空寺
    ・伊能忠敬墓
    ・高橋至時墓
    ・谷文晁墓
    ・高橋景保墓
    ・シーボルト事件
  〇 下町まちしるべ 旧 浅草北清水町

 【旧浅草芝崎町】
  ○ 本然寺  別頁
  ○ 萬隆寺  別頁
 
 【旧浅草松清町 寺町】
  ○ 東本願寺 別頁
  ○ 等光寺  別頁
 
 【元浅草 新寺町】
  ○ 誓教寺  別頁


矢先稲荷神社 台東区松が谷2-14-1

 浅草三十三間堂跡です。

    

<説明掲示>

 「当たり矢の矢先稲荷神社
  御由緒
   当社は寛永十九年(1642年)十一月二十三日に三代将軍家光が、当地に浅草三十三間堂を建立した際、
   その堂の鎮守として稲荷神を祭ったのに始まると伝えられています。
   浅草三十三間堂射術稽古場の的先に奉納されたために、その社名も矢先稲荷神社と称されました。」
 (略)
 「御神宝
   神殿の天井絵・馬術絵百体
   (神武天皇から昭和に至るまでの馬乗りの絵百体/海老名駿堂画伯作)」
 
  

   

<浅草三十三間堂跡(説明板)>

「浅草三十三間堂跡 台東区松が谷二丁目十四番一号
 『文政町方書上』によると、寛永十九年(一六四二)十一月二十三日、弓師備後が浅草において、幕府から六千二百四十七坪八合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。
 堂創建に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。
 元禄十一年(一六九八)九月六日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も焼失、跡地は公収された。同十四年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。
 矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。
  平成七年三月  台東区教育委員会」

  

 関連 三十三間堂跡(江東区富岡)

<下町まちしるべ 旧 松葉町> 台東区松が谷2-14-1

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧松葉町
 本町は、明治二年(一八六九)、それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前がひとつになってできた。町名は、新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。
 寛永十九年(一六四二)、この地域に「通し矢」で有名な京都東山の三十三間堂にならって浅草三十三間堂が建てられた。元禄十一年(一六九八)に勅額火事といわれる大火に見舞われお堂は焼失したが、深川で再建されたことから跡地に下谷あたりの寺院が移転して寺院街を形成した。そしてこれらの寺院に門前町が開かれるに伴って、新寺町と呼ばれるようになった。浅留町と浅草坂本町ができたのもこの頃である。
 矢先稲荷神社は、三十三間堂の鎮守として稲荷神を祭るのに始まった。そして、社名は弓術練習のために造られた三十三間堂稽古場的先に奉祭されたことから、このように呼ばれた。  台東区」

    


玉川兄弟の墓 台東区松が谷2-3-3聖徳寺

 玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)は、江戸市民の飲料水確保のため玉川上水を開発し、
 承応3(1654)年に開削工事は完成しました。聖徳寺に兄弟の墓があります。

    

(説明板)
「東京都指定旧跡 玉川庄右衛門および清右衛門墓
  所在 台東区松が谷二丁目三番三号 聖徳寺内
  指定 昭和十八年五月
 庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水開削工事の請負者で、江戸の町人と言われているがその出身地は明らかではない。玉川上水の開削工事は、四代将軍家綱の承応二年(一六五三)一月十三日に幕命が下り、二月十一日に着工された。工事費として幕府から七五〇〇両が下賜されたという。羽村から四谷大木戸に至る四十三キロの導水部は、承応三年(一六五四)六月二十日に完成した。その後給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ四谷・麹町・赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋方面に及んでいる。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術の水準を今日に伝える貴重な文化財である。近世都市江戸の水道施設建設の功績により、兄弟は二〇〇石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。また玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。兄の庄右衛門は元禄八年(一六九五)に、弟の清右衛門は翌年の元禄九年に死去した。明治四四年(一九一一)政府は、玉川兄弟の功績に対して従五位を追贈した。
  平成三年十月三十一日  東京都教育委員会 」

  

(説明板)
「玉川庄右衛門と清右衛門の墓(都指定旧跡)
 二基の墓のうち、向かって右側が庄右衛門の墓。笠付きの角石墓塔で、梵字の下に楷書で、「玉川本家先祖代々」とあり、さらに次の戒名が刻んである。
  隆宗院殿贈従五位正誉了覚大居士
 向かって左側が清右衛門の墓。先の尖った角石墓塔で、梵字の下に楷書で次の戒名が刻んである。
  接取院殿贈従五位光誉照山大居士
 従五位は、明治四十四年(一九一一)六月、政府により遺贈されたもの。両墓石は大正十二年(一九二三)の関東大震災で破損したが、昭和十二年(一九三七)有志によって修復された。
  平成十九年三月  台東区教育委員会 」

     

     

   


本覚寺 台東区松が谷2-8-15

 山門入ると左手にお百度参りの石柱群と境内社、右手に日限祖師堂、正面に堂内ステンドグラスの本堂。

    

   

<蟇大明神>

 奉納された蟇がすごい数です。

    

     

<蟇塚由来記>

(碑文)
「蟇塚由来記
 天保の頃 當山の檀家に秋山某なる人があった 故あって稼業を助ける神として蛙蟇塚という碑を建てて崇めていたと云う 大正一二年関東大震災の折 東京は一瞬にして焦土となり當山も又烏有に帰したがその時の墓守関某という人が霊感する所あって土の中より件の碑を探し出し小さな堂を建てて祠った  丁度その頃下谷に千八という人がおり この蛙蟇塚に願をかけた所大きなご利益を得 遂に一念發起して現在の地に蟇堂を建て 人に逢うことに蟇の分身を與えて利益のあることを宣伝した
 千八師は自らも歌舞をよくしこの方面に宣伝した為に花柳界歌舞演劇界映画芸能界等金銭物質の出入や人気稼業方面に信者が多い 昭和二十年三月の大空襲で全焼したが戦後いち早く下谷の高田家保袋家氏等の尽力で復興し今日に至っている 動物信仰の一形態としても誠に珍しいものである 昭和五十一年に至り堂宇の傷み甚だしくここに恒久的堂宇の再建を發願した所詣者多数の賛同と協力を得て昭和五十三年七月二十日新蟇堂の完成を見た。」

   


海禅寺 台東区松が谷3-3-3

 大きな寺標があり、かっぱ橋本通りから奥へ向かって参道がのびています。

    

梅田雲浜墓>

 寺標の脇に「梅田雲浜墓」説明板があります。

(説明板)
「梅田雲浜墓
 雲浜は名を始め義質、のち改めて定明といった。通称は源次郎。雲浜は号である。若狭国小浜(現、福井県)藩士、矢部岩十郎の二男として、文化十二年(一八一五)六月七日生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いで改姓した。
 朱子学を修め、大津、京都で子弟を教える。嘉永五年(一八五二)、幕府を批判したため小浜藩を追放される。しかし藤田東湖・佐久間象山・高杉晋作らと交際し、尊皇攘夷論を唱え、梁川星巌とともに在京志士を指導した。その活動は常に幕政批判で、開国論者の大老井伊直弼排斥も企てたが、安政五年(一八五八)の「安政の大獄」で捕えられた。翌安政六年(一八五九)九月十四日、小倉藩江戸邸の獄中で病没。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久二年(一八六二)現存の墓石が建てられた。墓石は関東大震災で大破したが、正面に「勝倫斎俊巌義哲居士」と、戒名が刻まれている。
  平成七年三月  台東区教育委員会」

  

「梅田雲浜肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  文化12年6月7日〜安政6年9月14日(1815年7月13日〜1859年10月9日)

  

<梅田雲浜墓>

    

<天海影前燈籠>

 「石燈籠両基
  東叡山大僧正天海影前燈籠
  正保二年(1645年)十月二日
  備前少将源朝臣光政」

 天海の影前に宝建された備前岡山藩初代藩主池田光政が宝建した石灯籠がありました。
 天海影前の石燈籠がなぜここにあるのか不詳。

      


源空寺 台東区東上野6-19-2

 銅鐘(台東区有形文化財)は、3代将軍徳川家光の要請をうけ徳川家康・秀忠の菩提を弔うために
 鋳造されたもので、作者は椎名勝十郎義定という人物です。

     

   

「江戸切絵図」
 源空寺が記載されています。

  


源空寺墓地/史蹟墓地 台東区東上野6-18-12

 左の門柱には「源空寺墓地」とあり、右の門柱には「史蹟墓地」と記されています。
 伊能忠敬と高橋至時の墓の前には、台東区教育委員会の説明板が建てられています。

    

伊能忠敬墓>(国史跡)

 「東河伊能先生之墓」と、東河という号が刻まれています。

(説明板)
「伊能忠敬墓(国指定史跡)  台東区東上野六丁目十八番 源空寺墓地内
 墓石は角石で、正面に「東河伊能先生之墓」と隷書で刻む。伊能忠敬は延享二年(一七四五)神保貞恒の子として上総国に生まれる。名を三治郎という。のち下総国佐原の酒造家・名主の伊能家を継ぐ。名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学・測量・天文などを研究。漢詩・狂句も良くし、子斉と字し、東河と号した。
 五十歳の時、家督を譲り江戸に出て高橋至時の門に入り、西洋暦法・測図法を学ぶ。寛政十二年(一八○○)幕府に願い出て、蝦夷地(現、北海道)東南海岸の測量に着手。以来十八年間、全国各地を測量して歩いた。しかし地図未完の内に文政元年(一八一八)四月十八日没す。享年七十四歳。
 地図作製は、幕府天文方が引き継ぎ、没後三年の文政四年に完成。その地図は『大日本沿海輿地全図』という。また『日本輿地全図』『実測輿地全図』ともいい、俗に『伊能図』と呼ぶ。わが国最初の実測精密地図である。
  平成七年三月 台東区教育委員会」

    

高橋至時墓>(国史跡)

 高橋至時
  明和元年11月30日(1764年12月22日)〜享和4年1月5日(1804年2月15日)
 高橋至時は、弟子の伊能忠敬より19歳若かった師匠ですが、忠敬より14年も先に41歳で亡くなっています。
 「東岡高橋君墓」と、東岡という号が刻まれています。

(説明板)
「高橋至時墓(国指定史跡)  台東区東上野六丁目十八番 源空寺墓地内
 角石の墓碑正面に「東岡高橋君之墓」と隷書で刻み、三面には、尾藤二州の撰文を刻む。東岡は至時の号である。
 至時は江戸時代中期の暦学者。明和元年(一七六四)十一月、大坂御蔵番同心、高橋元亮の子として生まる。名を至時、字を子春、通称を作左衛門といい、東岡または梅軒と号した。十五歳で父の職を継ぐ。性来、数学・暦学を好み、公務のかたわら、それらの研究に励む。ついで、当時の天文学界の第一人者、麻田剛立の門に入って学ぶ。
 寛政七年(一七九五)改暦の議が幕府で起きると、師剛立の推挙で、同門の間重富とともに天文方に抜擢され、同九年「寛政暦」をつくる。一方、伊能忠敬が幕命により、実測地図を作成する際には、測量を指導し、完成させた。その関係で、二人は後世「日本地図の父母」といわれている。文化元年(一八○四)一月五日四十一歳で肺患のため没した。著書に『赤道日食法』等がある。
  平成七年三月 台東区教育委員会」

    

谷文晁墓>(東京都旧跡)

 「本立院殿法眼生誉一如文晁居士」と刻まれています。

(説明板)
「谷文晁墓(都指定旧跡) 台東区東上野六丁目十八番源空寺墓地
 江戸後期文人画家。田安家の家臣で漢詩人谷麓谷の子である。
 名は正安、字は文晁のほかに子方、文五郎、号は画学斎、写山楼、文阿弥などといった。元・明・清画や狩野派、土佐派、文人画、西洋画など各派の手法を研究し画風を工夫し、関西文人画に対して江戸文人画壇の重鎮となった。門人として渡辺崋山、立原杏所、高久靄がいら多い。文晁の妻や娘も画家である。
 文晁は松平定信に従って諸国を巡歴し、『集古十種』の挿絵を描いた。このほか『名山図絵』『本朝画纂』『公余探勝図(重要文化財)』『五柳先生図』などがあり、人物、山水、花鳥、虫魚を得意とし、特に水墨山水に妙を得ていた。天保十二年(一八四一)十二月十四日没。年七十八。
 昭和二年四月、東京都旧跡に指定された。
  平成十三年三月 台東区教育委員会」

    

「谷文晁肖像」(肖像 野村文紹 国立国会図書館蔵)
  宝暦13年9月9日(1763年10月15日)〜天保11年12月14日(1841年1月6日)

   

<幡随院長兵衛墓>(東京都旧跡)

 幡随院長兵衛夫妻之墓(左ー長兵衛、右ー妻きん)

(説明板)
「幡随院長兵衛墓(都指定旧跡) 台東区東上野六丁目十八番源空寺墓地
 江戸初期の町奴。本名は塚本伊太郎。肥前唐津の士族で、幡随院の住職向導に私淑(一説には向導の実弟、または幡随院の門守の子ともいう)し、浅草花戸川に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたともいわれる。
 当時町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、また、大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて長兵衛は町奴の頭目となり、旗本奴の頭領水野十郎左衛門と張り合ったという。この辺は多くの伝説と潤色で後世の人々にもてはやされているため、つまびらかにはできない。
 慶安三年(一六五〇)四月十三日、水野十郎左衛門のだまし討ちにあって没した。年三十六。
 昭和二年四月、東京都旧跡に指定された。
  平成十三年三月 台東区教育委員会」

    

高橋景保墓>

 高橋景保
  天明5(1785)年〜文政12年2月16日(1829年3月20日)
 高橋至時の長男。シーボルト事件で獄死。
 玉岡という号が刻んであります。「玉岡高橋景保墓」

<頌徳碑>

 昭和10年に建立の「為天下先」と刻まれた高橋景保の頌徳碑です。
 題字「為天下先」は徳富蘇峰の揮毫です。その下に漢文で高橋景保の事績が記されています。
 碑の裏面は、シーボルトの著書「日本」の一節で、ドイツ語と訳文が刻まれており、
 シーボルトから高橋作左衛門(高橋景保)への感謝が記されています。

 

シーボルト事件>

 ドイツ人シーボルトは、オランダ商館付医官として文政6(1823)年に長崎に到着。長崎の鳴滝塾で多くの門人に西洋医学・博物学を伝授しました。
 塾生には高野長英・二宮啓作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいました。
 日本の科学的調査は、個人的関心でもあり、シーボルトにオランダ政府から課せられた任務でもありました。
 門人に日本に関する論文の提出を課すなど、資料を収集しました。その成果は『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』等にまとめられました。

 伊能忠敬の弟子であった間宮林蔵は、高橋景保への確執がありました。
 間宮林蔵のもとにシーボルトから小包が届き、間宮林蔵は奉行所に届け出ます。
 これを機に奉行所はシーボルトと高橋景保の関係を調べ、
 高橋景保がシーボルトから「世界周航記」を贈られた代わりに、大日本沿海與地全図の縮図を贈ったことが発覚し大事件に発展しました。
 シーボルトは文政12(1829)年に国外追放、再渡航禁止処分となり、
 地図を渡した高橋景保は死罪(実際には判決前に獄死)になるなど、関係者50数人が処罰されました。

「シイボルト肖像」(岩崎常正 文政9(1826)年 国立国会図書館蔵)

 幕臣岩崎灌園常正は文政9(1826)年3月下旬から4月にかけて数回、江戸滞在中のシーボルトを旅宿「長崎屋」に訪ねました。
 これはその際のスケッチです。服装について、左側に詳しく説明しています。

  

「日本図 伊能忠敬原図 高橋景保編」(文政10(1827)頃 国立国会図書館蔵)
 伊能忠敬が作成した日本地図の写しです。高橋景保が部下に作成を命じ、シーボルトに渡したものです。
 本地図は、幕府による押収後、昌平坂学問所で所持していました。

  


○「下町まちしるべ 旧 浅草北清水町」 台東区東上野6-19-2

 源空寺山門前に設置されている旧町名由来案内「旧浅草北清水町」です。

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 浅草北清島町
 本町は浅草清島町が新寺通り(現浅草通り)を境にして南北二つに分けられ誕生した。明治五年(一八七二)のことである。もとになった浅草清島町は同二年実施の市制改革に伴ってできた町で町名の由来はよくわからない。
 この付近は明暦の大火後、幕府の政策により寺院が移り街を形成したことから新寺町と言われていた。震災・戦災にもかかわらず今なお寺院が多く、静かなたたずまいを見せている。
 ―本町の見どころ―
 坂東報恩寺の俎開きは一月一二日に行われる包丁始め。古式にのっとり鯉に手を触れることなく包丁で料理をする四条流家元の見事な手さばきは見ものである。源空寺には谷文晁、伊能忠敬、番随院長兵衛、高橋東岡など歴史上の人物が眠る。 台東区」

     


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