Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 江東区富岡

  ○ 三十三間堂跡
  ○ 八幡堀遊歩道
  ○ 伊能忠敬翁像 別頁
  ○ 富岡八幡宮几号水準点
  〇 二軒茶屋/平清
  ○ 深川公園/深川不動尊 別頁


三十三間堂跡(江東区史跡) 江東区富岡2-4

 寛永19(1642)年、京都の三十三間堂を模して、弓術稽古のため浅草松葉町に三十三間堂が建立されました。
 元禄11(1698)年の火災で焼失、同14(1701)年に富岡八幡宮の東側に再建されました。
 正面の柱の間が33あることから三十三間堂と呼ばれます。
 柱の間隔は二間のため、実際の堂の大きさは南北66間(約120メートル)、東西四間(約7メートル)でした。
 堂の南北を射通す競技「通し矢」が行われ、江戸の名所として賑わいました。
 明治5(1872)年に廃仏毀釈により解体されています。

「江戸名所図会 三十三間堂」

 三十三間堂が描かれています。
、「五元集 新三十三間堂にて 若草や きのふの箭見も 木綿うり 其角」

  

「江戸名所図会 富岡八幡宮」

 富岡八幡宮の全景図の其一にも三十三間堂は描かれています。

  

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「絵本江戸土産 深川三十三間堂」(広重)

 「京都の蓮華王院を模すとかや 徹し矢を射てその芸を試むること京の三十三間堂のごとし」

  

「名所江戸百景 深川三十三間堂」(広重 安政4)

  

「東都名所 深川三拾三間堂」(広重)

  

<三十三間堂跡モニュメント>

 台座には陶板による一間の「矢」が描かれています。

(標柱)
「三十三間堂跡
 三十三間堂は京都の三十三間堂に模して寛永十九年浅草に創建され焼失後元禄十一年富岡八幡宮の東隣に再建されたが明治五年廃され堂の遺物は深川二丁目正覚寺に移された當時ここにおいて弓術の練習と競技が行われたことは有名であった
 昭和三十三年十月一日 江東区第二号」

     

(銘板)
「三十三間堂は、南北66間(約118.8m) 東西4間(約7.2m) 四面廻り緑の堂でした。
下の矢の絵は1間(約1.8m)の長さを表しています。(一般的な矢の長さは、左手を真横に上げ、指を伸ばし、のどより中指先までの長さに、約5?10cmを加えた長さです。)」

    

 関連 浅草三十三間堂跡


八幡堀遊歩道 江東区富岡2-5-6

 八幡堀遊歩道は、富岡八幡宮の東側に南北に走る遊歩道です。
 運河を埋め立てた遊歩道で、途中に八幡橋が架かっています。
 また新田橋が移転保存されています。

   

<八幡橋(旧弾正橋)> 国重要文化財

 鉄の橋としては日本最古で、国の重要文化財です。

(説明板)
「八幡橋(旧弾正橋)
 由来
 旧弾正橋は、明治11年(1878)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した国産第1号の鉄橋です。昭和4年(1929)に現在地に移され「八幡橋」と改称し、以来、人道橋として活躍して来ました。昭和52年(1977)国の重要文化財に指定されました。アメリカ人技師スクワイアー・ウイップルの特許を基本としたところから、平成元年10月、国内で初めてアメリカ土木学会より「栄誉賞」を受けました。」

  

<八幡橋(旧弾正橋)>

    

   

(説明板)
「国指定重要文化財(建造物)
 旧弾正橋(八幡橋)
   富岡一ー一九〜富岡ニー七
   昭和五ニ年六月ニ七日指定
 八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した長さ一五・ニメートル、幅ニメートル、有効幅員ニメートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(一九一三)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので、元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和四年(一九ニ九)五月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋でありかつ独特な構造手法で施工してある。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。
  江東区教育委員会」

  

<八幡橋鉄構来歴/アメリカ土木学会栄誉賞>

(銘板)
「八幡橋鉄構来歴
本橋ノ鉄構ハ東京市最初ノ鉄橋タリシ弾正橋ノ古構ヲ再用セルモノニシテ明治十一年東京府董工ノ下ニ工部省赤羽製作所ニ於テ鋳造セラレシモノナリ
其ノ後大正二年市区改正ニヨリ附近に新ニ弾正橋架設セラレタル結果之ヲ元弾正橋ト改名シ近年ニ及ヘルモノナリシカ帝都復興事業区画整理ニ依リ元弾正橋ハ廃橋トナリタルニ付東京市最古ノ鉄橋ヲ記念センカ為其ノ鉄構ヲ取外シ昭和四年此戸處ニ新設セラルル八幡橋ニ架設セルモノトス
 東京市」

(銘板)
「八幡橋は、明治11年(1878)わが国において、最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋となっています。
 橋の形(ウイップル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウイップル(SQUIRE・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。
 ウイップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技術に対して、平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。」

    

(説明板)
「国指定重要文化財(建造物)
 旧弾正橋(八幡橋)
  富岡一ー一九〜富岡ニー七
  昭和五ニ年六月ニ七日指定
 八幡橋は、東京市で最初に架けられた鉄橋である。長さ一五・ニメートル、幅ニメートル、単径間アーチ橋の形式をとる。アーチは鋳鉄製で五本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋である。
もとは、京橋区(中央区)の楓川に架けられていたものである。経緯については、『八幡橋新橋来歴』に詳しく記されている。
この橋は明治十一年(一八七八)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。はじめは弾正橋と称していたが、大正ニ年(一九一三)の市区改正により新しい弾正橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和四年(一九二九)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣りであるため、名称も八幡橋と改められた。
現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工されてあり、技術史の上でも価値の高い橋である。
  江東区教育委員会」

  

<人力車モニュメント>

(説明板)
「八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋は、明治11年(1878年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。弾正橋は、馬場先門から本所・深川を結ぶ主要街路の1つで、文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和4年(1929年)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
この東京名所図会(三ツ橋の現況)には、明治34年(1901年)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。
弾正橋・白魚橋・真福寺橋とをあわせ三ツ橋と呼び、古くから有名で人々から親しまれていました。」

    

<旧新田橋>

 新田橋については、こちらで記載済

   


富岡八幡宮几号水準点 江東区富岡1-20-3

 西参道に、撤去分解された石鳥居が置かれていて、几号が刻まれています。
 関東大震災で倒壊し補修、2011年の東日本大震災で破損し修復されましたが、
 その後、朱色の鳥居が新設されています。

     

<富岡八幡宮拝殿>

 渋沢栄一は、富岡八幡宮の社殿大修理のため、明治36(1903)年7月9日修補会会長となり尽力しました。

  

<横綱力士碑>

 参道脇に大関力士碑がありますが、横綱力士碑が拝殿右手の奥にあります。

(説明板)
「江東区指定有形文化財(歴史資料)
 横綱力士碑
  附 陣幕・不知火顕彰碑二基 日月石寄附碑 地固め寄附碑
    土台石垣 魚かし石柱二本 土台下玉垣
      富岡一ー二○ー三 富岡八幡宮
 この横綱力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第十二代陣幕久五郎が中心となり、明治三十三年に建てられました。
 古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・江戸で興行として開催されました。幕府がはじめて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞享元年(一六八四)の富岡八幡宮境内でした。その後、明和年間(一七六四?七一)には、春・秋二場所のうち一場所がこの地で開催され、享和元年(一八○一)までに本場所三十一回を数えました。その意味で、富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥地といえます。
 偉容を誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた陣幕・不知火諾右衞門碑や周辺の石造物(魚かし石柱、土台下玉垣は大正末ごろ)とともに、相撲と地域のつながりを示す貴重な文化財です。
  平成十六年ニ月  江東区教育委員会」

    

<力持の由来>
 
 碑文「力持の由来」によると、江戸時代、深川佐賀町を中心として米殻倉庫業の発達繁栄に伴い
 その從業員が余技とする力自慢で、明治以後においても隅田川の東西河岸の倉庫や問屋などで
 その從業員達の間で盛んに行われて来たとのこと。

  

「江戸名所百人美女 深川八幡」(豊国、国久)

 三味線のピックを口に挟んだ芸者が三味線を開梱しています。
 こま絵には「富ケ岡八幡宮」の扁額がある鳥居と桜が描かれています。

   


二軒茶屋/平清

 江戸を二分した料理屋が山谷の「八百善」と深川土橋の「平清(ひらせい)」です。
 「平清」は、文化年間(1804〜1818年)に営業を始め、明治32(1899)年に廃業したといいます。
 富岡八幡宮の境内にあった料理茶屋「松本」と「伊勢屋」の「二軒茶屋」の裏は河岸で舟を着けることができ、
 堀の反対東側にあった「平清」も舟を着けることができました。
 「二軒茶屋」と「平清」の利用客の多くは屋根舟を利用したといいます。

(参考)
 「八百善」(こちらで記載

「江戸名所図会 富岡八幡宮」

 「二間茶や」の「いせや」「松本」が描かれている部分の抜粋です。

  

「江戸名所図会 二軒茶屋雪中遊宴之図」

   

「絵本続江戸土産 二けん茶やうらの舟附場」(鈴木春信)

  

「江戸高名会亭尽 深川八幡境内 二軒茶屋」(広重)

  

「深川八景 二軒茶屋ノ暮雪」(勝川春章 大英博物館蔵)

  

「開化三十六会席 深川 松本」(豊原国周 明治11年 都立図書館蔵)

  二軒茶屋は、天保の改革で廃業となりますが、
 「松本」は営業を再開し、明治まで続きました。

  

「江戸高名会亭尽 深川八幡前」(広重)

 川柳「平清で 奢ったはても うしほひら」
 平清を平清盛にかけ、うしおひら(潮汁)は、最後に出る塩味仕立ての吸い物です。

  

「東都高名会席尽 深川土橋・平の清盛」(広重・豊国)

 料理屋「平清」の屋号は、主人の平野屋清兵衛によるものですが、平清盛に見立てて描かれています。
 こま絵には「深川土橋」とあり、左手に「平清」が描かれています。
 客の多くはこま絵にあるように屋根舟を利用したといいます。

   

「春色三十六会席 深川平清」(落合芳幾 明治2年 都立図書館蔵)

  

「皇都会席別品競 深川 平清」(月岡芳年 明治11年)

  

「開化三十六会席 深川 平清」(豊原国周 明治11年 都立図書館蔵)

  


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