【新橋2丁目】
〇 赤レンガ通り改修目的
〇 乗合馬車の発祥地
〇 鉄道の発祥地
【新橋3丁目】
〇 新橋駅(大正10年当時)
〇 愛宕下大名小路
【新橋4丁目】
〇 清隆館
〇 赤レンガ通りの洋家具
【新橋5丁目】
〇 消火栓
〇 新橋と遠山の金さん
〇 日本の野球チーム発祥地新橋
〇 新橋と公衆電話
【新橋6丁目】
〇 寛永通宝と新橋
〇 福沢諭吉と鉄砲玉
〇 幕末から明治維新
〇 赤レンガ通り大改修
※若干ロストしています。
「新橋赤レンガ通り」は、江戸時代は大名屋敷が密集し「愛宕下ノ大名小路」だった通りです。
赤レンガ造りの「清隆館」という勧工場ができたことが名前の由来といわれています。
赤レンガ通りの随所に「赤レンガ通りの地図」が掲示され、
「赤レンガ・ワンポイント知識」として様々なトピックスが掲示されています。
歩道には赤いレンガタイルが敷き詰められ、街灯は汽車の動輪をかたどっています。
ボラードは汽車の動輪を載せています。
(ワンポイント知識)
「赤レンガ通り改修目的
レンガの由来と歴史をモチーフに、うるおいとふれあいのある通りとして、地元の参加を得て整備しました。」
(ワンポイント知識)
「乗合馬車の発祥地
明治2年4月に、当時の芝口1丁目(現在の新橋1丁目)で、久右衛門ほか8人が馬車渡世の営業を始めました。」
(ワンポイント知識)
「鉄道の発祥地
明治5年9月、新橋(旧汐留駅)と横浜の間に鉄道が開通しました。新橋駅(旧汐留駅)は、木骨石張りの英国式洋風建築でした。」
〇摩滅 港区新橋2-10 西
「摩滅」
(ワンポイント知識)
「新橋駅(大正10年当時)
現在の新橋駅は当初、「烏森駅」として開業し、大正3年12月に現在の駅名となった。」
(ワンポイント知識)
「愛宕下大名小路
江戸時代の赤レンガ通りは、諸大名の中屋敷等が連なる「愛宕下大名小路」として有名であった。」
(ワンポイント知識)
「この附近には、赤レンガ造りの「清隆館」という勧工場があった。現在の『赤レンガ通り』の名前の由来になったといわれている。
「勧工場」とは、いろいろな店が出店していて、現在の百貨店のような所であった。」
ここは一関藩田村家上屋敷の正門があった場所です。
(ワンポイント知識)
「赤レンガ通りの洋家具
明治になって、港区の産業として発展してきたものに洋家具業があった。その中心が、赤レンガ造りに面して軒を連ねていた家具屋街であった。これは、文明開化による生活の洋風化や、官庁や当時の大企業が近接していたという立地条件によるものと思われる。」
赤レンガ通りの反対側は、赤レンガ通りの由来となった勧工場「清隆館」(愛宕下町2-2)が、
ここら辺りから北側にあった場所です。
(ワンポイント知識)
「新橋と遠山の金さん
「この桜、散らせるものなら散らせてみやがれ」の名言で、講談や映画で名町奉行とうたわれた遠山金四郎の屋敷が、現在の新橋四丁目にあった。遠山金四郎は幼名で、後に左衛門尉景元と称し北町奉行となった。
名奉行と言われた由縁は、若いころ遊興に身を持ち崩していたが、がらりと生活態度を一変した。これが奉行となった時返って庶民の世情に通じていたため、人情味あふれる名裁きをしたということからである。
この遠山金四郎、後世に残る新橋が生んだ名奉行であった。」
「江戸切絵図」
愛宕ノ下大名小路の東側、東海道の西側に「遠山左エ門尉」の屋敷が記されています。
現在地では、港区新橋4-24となります。
(参考)「遠山景元墓」(こちらで記載)
(ワンポイント知識)
「日本の野球チーム発祥地新橋
新橋は、日本の鉄道発祥地で有名であるが、この鉄道発祥地で日本の野球チームが生れたといわれている。
日本の野球元年は、明治五年(1872)アメリカ人ホーレス・ウィルソンが生徒に野球を教えたのが初めてである。
明治十一年アメリカ留学から帰った鉄道技師平岡煕が、旧新橋駅構内の荒れ地を地ならしし、駅員や鉄道局職員に野球を紹介し、日本発の野球チーム「新橋倶楽部」を結成、明治十五年日本で最初の野球試合を行ったとされている。」
(参考)平岡煕(安政3(1856)年〜昭和9(1934)年)
平岡煕は、鉄道技師から実業家、日本野球の創始者で野球殿堂入り第1号。
鉄道技師から車両製造会社「平岡工場」を興して巨万の富を築きました。
明治4(1871)年渡米し、汽車製造会社に勤めながら鉄道技術を学びました。
明治9(1876)年に帰国の際、野球道具を日本に初めて持ち帰りました。
明治11(1878)年に日本で最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成、
明治15(1882)年に日本で最初の野球試合を行ったとされています。
昭和34(1959)年に正力松太郎氏とともに野球殿堂入り第1号となりました。
(「港区ゆかりの人物データベース 平岡煕」(港区 サイト消失)及び現地案内板を参照しました。)
(ワンポイント知識)
「新橋と公衆電話
公衆電話が街頭に初めて登場したのは、明治三十三年、場所は新橋と上野の停車場である。交換手がつなぐもので「自働電話」とよばれた。料金は一通話十五銭。「おいれなさい」という交換手の声にしたがって五銭硬貨を入れると「チーン」、十銭硬貨を入れると「ポーン」という音がし、交換手がその音を確かめてつないだ。この「自働電話」は関東大震災(大正十二年)後、自動交換が開始されるにあたって「公衆電話」と改名され今日にいたっている」
(ワンポイント知識)
「寛永通宝と新橋
愛宕警察署前交差点を左折し、第一京浜国道を越え街中に入っていった付近を、芝銭座町と言い昭和七年まで町名として続いていました。この名の銭座とは、貨幣のうちでも金・銀貨を除いた銭貨を鋳造する所、つまり造幣局です。あの中央区銀座の地名も銀貨鋳造所があった名残りである。この銭貨鋳造所が鋳造し始めたのが寛永十三年、それまで中国からの輸入錢貨に代わって、国産初の銀貨「寛永通宝」がこの地で生まれたことである。」
「江戸勝景 新銭座之図」(広重)
会津藩松平肥後守の中屋敷が描かれ、道の反対側が芝新銭座町の町屋です。
町屋では傘を生産しており、画面右に傘が見えます。
「江戸切絵図 芝新銭座町」
会津藩中屋敷の南に「新銭座丁」と記されています。
「芝新銭座町」の由来は、寛永13(1636)年に江戸における最初の銭貨鋳造所がこの地に設けられ、「寛永通宝」が鋳造されたからと伝えられています。
芝の鋳造所は元文年間(1736〜1741年)頃に姿を消したとされていますが、「芝新銭座町」として地名が受け継がれました。
江川太郎左衛門は、ここに天保13(1842)年「高島流洋式砲術教授」の教場を設けました。
福沢諭吉は築地の蘭学の塾を、慶應4(1868)年に教場跡地の一部に移し、年号にちなんで慶應義塾としました。
(ワンポイント知識)
「福沢諭吉と鉄砲玉
東新橋の南端、浜松町にかかる一帯を、新銭座町と呼んでいました。ここに福沢諭吉は幕末の慶応三年に、慶應義塾を創設しました。この地に塾舎を建てたのは、官軍江戸入りの騒ぎで皆荷物をからけて逃げ仕度している最中であったというから驚きである。上野の戦争の最中も、講義をやめなかったことは有名であり、上野ではどんどん鉄砲を撃ち合い、町が大騒ぎしている中、「この塾あらん限り大日本は世界の文明国である。世間に頓着するな」と、大勢の少年を励ましたという。」
(参考)「福沢諭吉胸像」(こちらで記載)
江川太郎左衛門英龍は、天保13(1842)年に芝新銭座に「高島流洋式砲術教授」の教場を設けました。
英龍の子・英敏は、安政2(1855)年、関丹馬守屋敷地および地続きの土地(現、港区海岸一丁目付近)を拝領し、「芝新銭座大小砲習練場」を設けました。
(ワンポイント知識)
「幕末から明治維新
東新橋の南端、浜松町にかかる一帯を、昭和7年まで新銭座町と呼んでいました。ここには江戸時代末には、江川太郎左衛門英竜が「高島流洋式新砲術教授」の看板を掲げ、当時芝の海に面していた土地に教場を作ったという。この入門第一号が幕末に生きた開国論者、佐久間象山であったという。入門者は続々とふえ、幕末から明治維新後の日本を大きく動かした桂小五郎、黒田清隆、大山巌らも門下生であったという。」
江川太郎左衛門の教場は、現在は港区立イタリア公園(港区海岸1-1)になっています(港区観光協会の見解)。
なお、浜離宮庭園にある「新銭座鴨場」の名称は、この鴨場の西南側の地名が新銭座町であったことに由来します。
(参考)
「江川太郎左衛門屋敷跡」(こちらで記載)
「伊豆韮山反射炉」(こちらで記載)
「台場」(こちらで記載)
(ワンポイント知識)
「赤レンガ通り大改修
この通りを通称「赤レンガ通り」と呼んでいる。
この「赤レンガ通り」、古くは江戸時代、この通りの左右に大名が軒を並べ、武家屋敷街をなし、「愛宕ノ下大名小路」と呼ばれていました。「文明開化」「汽笛一声新橋を…」を背景に、新興産業と共に繁栄してきました。この由緒ある通りを、昭和62年から平成3年にわたり、レンガの由来と歴史をモチーフに、うるおいとふれあいのある通りとして、地元の参加を得て赤レンガ通り大改修を、完成させることができました。」
赤レンガ通り