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 下谷御成道/上野三橋

  〇 下谷御成道
  〇 下谷広小路(上野広小路)
  ○ 上野三橋
  ○ 上野広小路遺跡三橋遺構


〇下谷御成道

 将軍が寛永寺参詣の際は、江戸城大手門から出て神田橋門を通り、
 筋違御門(現万世橋)から下谷御成道を進み、下谷広小路から三橋を渡り寛永寺へ至りました。

「江戸切絵図 下谷御成道」

 筋違御門(現万世橋)から下谷広小路まで、将軍が寛永寺への参拝に利用した道で、
 「下谷御成道」と呼ばれました。(参考:筋違御門)

  

 「昌平橋」と「筋違御門」が見えます。
 「下谷御成街道」が下谷広小路〜三橋へと続いています。

  

「東都花暦名所案内」

 江戸時代の「東都花暦名所案内」に記されている下谷御成道及び下谷道と奥州街道部分の抜粋です。
 下谷御成道は江戸御城の筋違御門から、奥州街道は浅草御門から延びているのがわかります。
 江戸時代の観光マップだけあって、町名と名所・行事が記されており、わかりやすいです。

  

「江戸名所図会 筋違八ツ小路」

 神田川下流に筋違橋、その上流に昌平橋が見えます。
 神田川沿には、柳が植わっています。
 八ツ広路は、火除地を兼ねた広場となっています。火の見櫓が見えます。
 筋違門に向かう行列が見えます。幕府の行事は描いてはいけないので、
 行列は短く描いて、将軍の寛永寺墓参は描いていませんと主張しているようです。

  

「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重)

 筋違御門を入って来た行列が、八ッ小路を横切っています。
 これを見た瞬間には、将軍の寛永寺への墓参帰りと思ってしまいますが、
 行列には多くの女性のお付が見えるので、輿の主は女性を主張しているようです。
 当時は幕府の行事を描くことは禁止されていたので、将軍の行列は描いていませんとの言い訳かもしれません。
 右手には柳原堤、右手奥に神田明神が見えます。

  

〇下谷広小路(上野広小路)

 下谷広小路は、明暦の大火(1657年)後に火除けのために道路の一部が拡げられて設けられました。
 明治2(1869)年に「上野広小路町」が起立し、「下谷広小路」は「上野広小路」と呼ばれるようになりました。

「名所江戸百景 下谷広小路」(広重)

 日光御成道の火除地の大通りである下谷広小路を描いています。
 奥には三橋、寛永寺の石垣、上野の山が見えます。
 下谷広小路の路上に飛び出た建物は自身番とされています(東京都立図書館の次の作品の解説)。
 一方、髪結床とする説もあります。
 右に大店が描かれており、上野松坂屋の前身である呉服商「いとう松坂屋」です。
 広重は「名所江戸百景」で、下谷広小路の松坂屋、大伝馬町の大丸屋、駿河町の越後屋、日本橋の白木屋の呉服屋四店を描いています。
 暖簾には、松坂屋の商標「いとうまる」があり、両脇に「いとう」「まつさかや」と文字が添えられています。
 屋号紋は、創業一族・伊藤家の「藤」の字を、結束を表す「井桁」と完全を意味する「円」で囲んだものです。
 「いとう松坂屋」は安政の大地震で倒壊したため、「いとう松坂屋」の建物は隣の建物よりも新しい木材で建てられているのがわかります。
 店の奥には土蔵が見えます。店の手前には、店の商号を染めた風呂敷包みを背負って歩く2人の手代が見えます。
 後方に弁当をかついだ男衆を従えた、お稽古の師匠に連れられたそろいの傘の女性一行(花見連)が上野の山の花見に向かっています。
 よく見かけるそろいの傘の行列ですが、この行列の女性の服装はおそろいではなくバラバラです。
 刀を携えている男性たちをよく見ると、袴ではなくズボンを履いています。

    

「松坂屋之図」(歌川国芳 都立図書館蔵)

 遠景に寛永寺の中堂が見えます。
 下谷広小路の「いとう松坂屋」前の正月の風景が描かれています。

  

「江戸名所道化尽 三十二 上野広小路」(歌川広景 都立図書館蔵)

 下谷広小路の「いとう松坂屋」前の夜のドタバタが描かれています。
 下谷広小路で開かれていた植木市は、賑わいました。通行人の何人かは植木を持っています。
 吹き矢の矢が数字が描かれた的に当たらずに、店主の頭に当たって、店主は屋台を倒してしまいました。
 景品の飴などがこぼれて、こどもたちは喜んでいます。

  

「江戸名所道化尽 十一 下谷御成道」(歌川広景)

 下谷御成道の光景です。質屋「佐野屋」が見えます。遠景に寛永寺の赤い中堂が見えます。
 こどもたちが水鉄砲で遊んでいたら、武士の顔面に鉄砲水がヒットしてしまいました。
 女性が謝っています。

  

「江戸高名会亭尽 下谷広小路 東叡山麓河内楼上酒宴之図」(広重)

 「狂句合 お池通りにかつら河長印 扇松」
 谷中の長久院に楼主が碑と手水鉢を奉納しています。

  

「松坂屋の歴史」

 松坂屋(伊藤家)の創業は、慶長16(1611)年)。
 創業者は織田信長の家臣・伊藤蘭丸祐道で信長の小姓役、三蘭丸(森蘭丸、早川蘭丸、伊藤蘭丸)のうちのひとりでした。
 本能寺の変の後、武士を捨て商人になったのが、松坂屋の前身・いとう呉服店の始まりです。
 江戸へ進出したのは、明和5(1768)年のことです。寛永寺や尾張徳川家、加賀前田家の御用を承る大店として知られました。
 安政2(1855)年の安政の大地震では、多大な損害を蒙りましたが、直ちに再建し、
 その店開きに合わせて歌川広重「名所江戸百景下谷広小路」が版行されました。
 平成22(2010)年、大丸と松坂屋が合併し、「株式会社大丸松坂屋百貨店」が発足しました。

「上野広小路松坂屋呉服店」(絵葉書 台東区立図書館蔵)

 大正5(1916)年に洋風4階建ての新本館が竣工しました。
 木造のため、関東大震災の2日目の夜に全焼しました。

  

「昭和ノ大東京大建築ノ偉観/上野広小路松坂屋/工費七百五十万円延坪一万四坪」(絵葉書 台東区立図書館蔵)

 昭和4(1929)年に完成した松坂屋本館は、地上7階、地下1階の鉄骨コンクリート造です。
 現在も改修を施しながら使用されています。

  


○上野三橋

 上野広小路に面した上野公園入口には、大正時代まで不忍池池畔から流れる忍川があり、
 三つの橋が架けられており、「三橋」と呼ばれていました。

「江戸名所図会 東叡山黒門前 忍川 三橋」

 忍川と三橋が見えます。
 中央の橋に向かう行列は、墓参のため寛永寺に向かう徳川将軍の一行でしょうが、
 当時は幕府の行事は描けないので、将軍の行列でないことの言い訳として規模を抑えてい描いているのでしょう。

  

「江戸切絵図」

 忍川が不忍池から流れ出て、三味線堀へ向かいます。3つの橋、三橋が見えます。

  

「絵本江戸土産 上野黒門及三橋の図」(広重)

 挿絵には「街に三ツの橋を架るこれを三橋といふ 俗に三枚橋といふは非なり 黒門の方爪上がりにして樹木を見こみ実に東国第一の梵刹有難くいと尊し 昔時この所に仁王門ありけるが明和の火災に回祿せしよし 今は左右の礎のみ残る これを俗に袴腰といふ」とあります。

  

「絵本江戸錦 不忍池弁財天 湯島天神」(豊春)

 右手前に三橋が見えます。

  

「江戸名所上野仁王門之図」(豊春)

 手前に三橋が見えます。
 なお、仁王門は明和の大火で焼失しました。

   

「東都三十六景 下谷広小路」(二代広重)

 三橋が見えます。

  

「上野三枚橋之図」(鳥文斎栄之)

 忍川に三つ並んで架かる三枚橋が描かれています。奥には寛永寺の森が見えます。
 鳥文斎栄之(宝暦6(1756)年〜文政12(1829)年 本名:細田時富)は、家禄500石の旗本から町絵師に転じた浮世絵師で、
 「栄之」は10代将軍家治に命名されたと伝えられます。

  

  

「温古東錦正月十日諸侯上野霊廟へ参詣之図」(小島勝月 明治22年 国立国会図書館蔵)

 大名たちが三橋を渡って参詣する様子が描かれています。
 左手に不忍池が見え、中央に黒門とその先に文殊楼が見えます。

   

「温故東の花 旧諸侯上野初御仏参之図」(楊洲周延 明治22年 都立図書館蔵)

 楊洲周延は、江戸時代には描けなかった大奥や幕府の行事を描いています。
 大名の御仏参を描いており、三橋を越えて黒門の手前、袴腰での風景です。

  

「千代田之御表 上野御成」(楊洲周延 明治30年)

 徳川将軍の上野御成を描いています。三橋、袴腰を越えて進んだところでしょう。
 背景に清水観音堂が見えます。

  

「名所之内上野」(歌川芳盛 東京都立図書館蔵)

 「名所之内上野」の全体図と三橋と六阿弥陀部分の拡大です。
 常楽院(こちらで記載)は三橋の手前に「六アミダ」と表示されています。
 町屋の間にある冠木門(表門)をくぐった先が境内となっています。
 新政府・北陸道先鋒軍が、錦の御旗をかかげ、三橋を渡って袴腰へ進むさまが描かれています。
 官軍は寛永寺側と交渉を行いますが、交渉は決裂したものの衝突は免れ、決着は持ち越されました。
 袴腰の末に黒門がありますが、彰義隊の戦では、ここが主戦場となりました。

   

【明治期の三橋】
「上野公園之図」(東京案内 明治40(1907)年)

 三橋は勧業博覧会の混雑を見すえて、木橋から強度の高い橋に架けかえられたようですが、
 地図では、三橋として3つの橋の記号が見えます。(地図ではひとつになっていないです)。
 三橋の真ん中は路面電車の線路(浅草行と見えます)が通っています。

   

「東京名勝図会 上野広公路」(三代広重 明治元年 都立図書館蔵)

 三橋で凧あげをするこどもたちが描かれています。
 上野広小路は、広い火除地であったことから、新年には凧あげなどを楽しみました。

  

「東京名所四十八景 上野黒門前花見連」(昇斎一景 明治4年 都立図書館蔵)

 「花見連」が三橋を越えて、袴腰から黒門へ向かっています。

  

「上野公園地 内国勧業博覧会開業図」(進斎年光 明治10年 台東区立図書館蔵)

 明治10年8月21日から11月30日まで、上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会を描いています。
 明治期には5度の内国勧業博覧会が開かれました。
 「三橋」を中央を馬車が通過したところです。
 不忍池には「龍門橋」が見えます。

   

「上野三橋」(井上安治)

 馬車鉄道が三橋を渡っています。
 同じ時期の下の馬車鉄道の写真には、両脇の橋が見えるので、
 この絵では両脇の橋が切れているだけのようです?。
 東京馬車鉄道は、新橋ー上野ー浅草ー浅草橋ー日本橋ー新橋の循環線を営業していました。
 明治15(1882)年に営業開始し、明治36(1903)年に馬車から路面電車へ切り替えられました。

  

「上野一覧内国博覧会之図」(三代国貞 明治23年)

 明治23年4月1日から7月31日まで開かれた第3回内国勧業博覧会が描かれています。
 蒸気機関車が走っています。
 三橋の中央の橋には馬車鉄道のレールが敷かれています。

   

「東京景色写真版 上野三枚橋遠景」(江木商店 明治26年)

 馬車鉄道が三橋を渡っています。
 木橋から強度の高い橋に架け替えられた後でしょうが、両脇に狭い橋が存在しています。

    

「上野広小路」(日本之名勝 史伝編纂所 明治33年)

 明治の頃の上野広小路の写真です。
 三橋の手前右手に常楽院の入口らしきものが見えます。

  


○上野広小路遺跡三橋遺構 台東区上野公園2-1 下町風俗資料館

 令和5(2023)年1月19日に「上野広小路遺跡三橋遺構」完成記念式典が行われ、
 1月20日から一般公開されています。
 上野広小路遺跡から出土した石材・木材を使い、江戸時代に上野広小路から寛永寺へ渡るための橋であった
 「三橋」の下部構造となる石組について、その半面を再現して整備されています。

    

(説明板)
「上野広小路遺跡三橋遺構(台東区有形文化財)  台東区上野公園二番
 上野広小路遺跡三橋遺構は、台東区立上野中央通り地下駐車場を建設する際の敷地内発掘調査により、平成十七年度に発見された石組水路の遺構で、構築年代は十七世紀後半頃と推測される。
 江戸時代には、不忍池の南東角から広小路を横切るように東へ水路(忍川)が流れており、忍川には寛永寺に参詣するための三つの橋(中央に将軍が参詣する時に使用した大橋、左右に一般用の小橋)が架けられていたことから、「三橋」と呼ばれていた。
 この遺構は、三橋の株構造(橋台)の一部を構成する石組水路であると考えられている。
 発掘時、石組水路は深い部分で上幅三メートル、下幅一メートル、高さ三メートルあり、石垣は「間知石」を積上げ、底面の砂層の上には板材が組み合わせて敷かれていた。
 本遺構は遺存が良好であり、底面に類例の知られていない板敷きを有するなど貴重である。また忍川と上野広小路の歴史を解明し、寛永寺と三橋の関係を考える上でも重要である。
 ここでは、上野広小路遺跡三橋遺構から実際に出土した石材・木材を使い、石組の半面を再現して設置・展示している。
  令和五年一月  台東区教育委員会」

   

<石組/底板>

    

 底板の寛永通宝
   

<パネル>

「上野広小路遺跡三橋遺構 平成19年台東区文化財登録」

    

(説明板)
「底板に遺された古銭
 上野広小路遺跡三橋遺構は、将軍が寛永寺に参詣する際に渡った忍川に架かる中央の橋とその左右の小橋(「三橋」と呼ばれていました)の橋台を石組水路であると考えられています。当時使用されていた銭貨(寛永通宝)が、この遺構から出土した木材の板(底版)に張り付いた状態で発見されています。」

     

(説明板)
「間知石の石組水路(発掘当時の様子)
 発掘された石組水路の高さは約3.4mで、間知石が8〜9段積まれていました。この展示では、実際に出土した間知石のうち4段分と実際に底面に敷かれていた底板を用いて、石組水路の半面を再現しています。間知石は伊豆で採掘された小松石が使われています。

緊結された底板
 底板は砂地を抑えるために間知石の下部まで入れられていました。板には厚さ12cmのトガサワラ材が使われ、木口は契り(ちぎり)で緊結し、吸い付き桟で接合していました。三橋は元禄時代頃に架けられ、この時代に寛永寺の中心伽藍である根本中堂が創建され、多くの堂宇と36坊の子院も整備されています。」

    

(説明板)
「寛永寺の伽藍
 三橋を渡ると黒門�@、仁王門(1721年焼失)と続き、清水観音堂�A、山王社�B、文殊楼�C、時の鐘�D、大仏殿�E、薬師堂、五重塔、東照宮、さらに儀式鐘�F、常行堂�Gと法華堂�H(両堂をあわせて「にない堂」と呼びました)、その先に空水塔�I、輪蔵�J、水盤舎一対、根本中堂�Kと続きます。
 根本中堂は寛永寺の本堂に当たり、現在の上野恩賜公園の大噴水 (噴水池) の位置にありました。その背後には、輪王寺宮の住居である本坊が現在の東京国立博物館の位置にありました。さらにその後には四代将軍徳川家綱や五代将軍徳川綱吉の霊廟があったことこら、これらの将軍の命日には当代の将軍は本坊から、大名は36坊の子院から、それぞれ霊廟を参詣しました。

上野恩賜公園と寛永寺
 現在の上野恩賜公園の一帯は、江戸時代、天台宗東叡山寛永寺の境内でした。寛永寺は江戸の鬼門(東北)に当たるこの地に、二代将軍秀忠、三代将軍家光の援助のもと、寛永2(1625)年に天海僧正により創建されました。当初は幕府の祈願寺でしたが、四代将軍家綱の死後、芝の増上寺と共に徳川家の菩提寺となりました。慶応4/明治元(1868)年の戊辰戦争(彰義隊)によって、寛永寺の伽藍の大半は焼失しました。その跡地の多くは現在の上野恩賜公園となり、今日では博物館、美術館、動物園、音楽ホール、大学などが立ち並ぶ、文化の中心地になっています。」

「橋本定秀筆 絹本着色東叡山之図(東叡山寛永寺蔵)」

   

(説明板)
「この版画は、明治22(1889)年に小島勝月という画家が往時を偲んで描いたものです。江戸時代のことをよく知らないため、間違ったことも描いていますが、勝月がこの絵を描いた当時は、まだ三橋は江戸時代のまま残っていたので、橋の描写は正確で雰囲気もよく伝わってきます。三橋の背後には、黒門や文殊楼(山門)も描かれています。
 三つの橋のうち中央の橋は「御橋(みはし)」とも呼ばれ、将軍と寛永寺の山主である輪王寺宮だけが渡ることのできた橋で、左右の橋よりも幅広でした。寛永寺に向かって左の橋は、谷中方面への道(谷中道)につながることから「谷中橋」と呼ばれていました。」

「小島勝月画 温古東錦正月十日諸侯上野霊廟へ参詣之図(東叡山寛永寺蔵)」

   

「温古東錦正月十日諸侯上野霊廟へ参詣之図」(小島勝月 国立国会図書館蔵)

  


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