隅田川から、矢ノ倉(米蔵)への米の搬入のための入堀として薬研堀が開削されました。
薬研堀には元柳橋が架かっていました。
矢ノ倉は、元禄11(1698)年、火災により焼失、米倉は築地に移されています。
「江戸切絵図」
江戸切絵図に「元柳橋」と「薬研堀」が見えます。
<現在地> 中央区東日本橋1-10
日本橋中学校校庭から歩道橋の南側付近にかけて、かつて薬研堀があったところです。
薬研堀に架かる橋は、北詰に柳の木があることから「柳橋」と呼ばれましたが、
神田川河口部に架かる「川口出口之橋」が同じ名で呼ばれるようになり、
元の柳橋は、「元柳橋」と呼ばれるようになりました。
<元柳橋モニュメント> 中央区東日本橋1-11
元柳橋があったと思われる場所は、隅田川テラスへの階段となっています。
東京都下水道局の高潮防潮扉ともなっています。
実用的ではない欄干は、元柳橋をイメージしていると思えます。
モニュメントが元柳橋をイメージしているとして、
牛だか羊だかわからないオブジェは何をイメージしているのか、
隅田川テラスを散策した時も、不思議に思いました。
竜馬が来たのでパチリ。
【江戸名所図会や錦絵などに見る元柳橋】
「江戸名所図会 両国橋」
複数の挿絵を合成しています。左下に「柳橋」、右端に「元柳橋」が見えます。
2枚目は元柳橋の拡大です。橋の袂に柳の木が見えます。
「絵本江戸土産 両国橋」(広重)
「絵本江戸土産 両国橋}中に「元柳橋」が見えます。
橋の袂に柳が描かれています。
「絵本江戸土産 向両國茶屋 元柳橋 濱町」(広重)
元柳橋と向岸に一之橋が見えます。元柳橋の袂に柳が描かれています。
「絵本隅田川両岸一覧 元柳橋の子規 大橋の綱引/広小路の群衆 御船蔵の(虫偏に舟)」(北斎)
柳橋部分と広小路の一部を連結しています。
元柳橋と柳が描かれています。隅田川下流に新大橋が見えます。
「名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋」(広重)
元柳橋部分を拡大すると、橋の袂に大きな柳が描かれています。
「東都両国夕凉之図」(貞房)
錦絵の右上に、元柳橋と柳が見えます。
「東都隅田川両岸一覧 東」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)
元柳橋部分の抜粋です。柳が描かれています。
「元柳橋両国遠景」(小林清親)
元柳橋は手前にあり描かれていませんが、柳とその先の両国橋が描かれています。
柳の袂には力石?が描かれています。
「東京五大橋之一両国真景」(小林清親 明治9年)
両国橋がメインですが、富士山、筑波山、元柳橋と盛り沢山です。
元柳橋部分を拡大すると、柳が見えます。薬研堀も描かれています。
「元柳橋」(井上安治)
井上安治が光線画で元柳橋を描いています。
日本橋中学校の西南角に、2つの碑が建っています。
右側には「旧跡 矢の倉」の趣旨が、左側には由来が刻まれています。
(碑銘文)
「旧跡 矢ノ倉
趣旨
由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜むの余り旧跡として、後の世の人々の語り草ともなればと、町内有志が相寄って町会記念事業として、この碑を建立したものである。
昭和五十年十一月三日
東日本橋一丁目矢ノ倉町会有志一同」
「由来
江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保二年(一六四五)徳川幕府が米倉を建て、これを谷之御蔵と称した。元禄十一年(一六九八)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末までこの地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治五年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。
昭和四十六年四月一日住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋一丁目となった。江戸時代からの旧町名の保存を記念としてこの碑を建立する。
昭和五十年十一月三日」
薬研堀はなくなりましたが、その名を今に残すのが「薬研堀不動院」です。
現在は川崎大師別院となっています。HP
「江戸名所図会 薬研堀 不動 金比羅 歓喜天」
天保の改革時に、本所弥勒寺に移されましたが、明治維新後、旧地に遷っています。
江戸名所図会には、「薬研堀 不動」としてかろうじて描かれています。
江戸切絵図には記載はありません。
<奉納品>
奉納ケースには「やげん堀 七味唐辛子本舗」と「カゴメ株式会社」からの奉納品。
「七色唐辛子売り」(近世流行商人狂哥絵図 曲亭馬琴 天保6(1835)年)
江戸時代は、ハリボテの唐辛子を担いで唐辛子を売り歩いていました。
子どもの目を引けば親もやって来ます。
<聖徳太子碑>
本堂右手に「聖徳太子」碑があります。
<子寶地蔵尊>
昭和33(1968)年に建立された地蔵尊です。
<梵字佛薬研堀不動三尊>
不動明王とその従者である二童子を表す梵字が刻まれています。
「梵字佛薬研堀不動三尊
薬研堀不動院開創四百十五年祭記念碑」
<納めの歳の市之碑>
「薬研堀不動尊歳の市保存会」結成30周年を記念して。平成8(1996)年に建碑されました。
歳の市の由来等が刻まれています。
(碑文)
「碑陰の記
遠く江戸時代の中頃より江戸の街では十二月に入ると各地で歳の市がたった。
歳の市とは門松〆飾り羽子板等の正月用品を売る市を云う かつて東京の歳の市は十二月十四日十五日の深川八幡に始まり浅草観音 神田明神 芝の愛宕神社 平川湯島の両天神を廻って最後は二十八日の薬研堀不動尊で終わり特にこの市を「薬研堀不動尊納めの歳の市」と言われた 初めの頃は梅の盆栽が売られ「梅の市」とも呼んでいた 戦前は何十軒もの羽子板屋が不動院門前に並び横町には神沸具 臼 杵 まな板 ざる 箒等の迎春用品の露店が出店し当時の千代田小学校の通りには「がさ市」が立ち〆飾り 門松 竹 海老 こんぶ等が威勢よく売られ身動き出来ぬ位の人出に下町情緒豊かな歳末風景がみられた
先の大戦の頃は戦災の拡大と共に一時中断してしまい戦後なんとか復活させたものの時勢に合わずさびれる一方であった
時移りようやく昭和四十年地元の町会商店会の有志が是非とも江戸以来の伝統行事下町の風物詩をしっかりと後世に残すべきと「薬研堀不動尊 歳の市保存会」を組織して同時に近隣問屋街とも協賛し衣料品日用雑貨等を市価の半額で販売する「大出庫市」を併催することとなり苦心経営の末最近になってようやく往時の賑わいを取り戻すことが出来た 有り難いことです
又想いめぐらせば戦前戦後を通じて本院の大本山である川崎大師平問寺の厚いご加護を一貫して賜ったことも復興への銘記すべき事柄である
本年は大出庫市を併催して丁度三十年の節目に当たるので歳の市復活に情熱を燃やした先人達を偲び此の町の今日までの歳の市への過ぎ越し方をこの碑に留め一つの証とする
平成八年四月十五日
薬研堀不動尊
歳の市保存会」
<遍路大師尊像>
<順天堂発祥之地碑>
順天堂の学祖・佐藤泰然が、天保9(1838)年に和蘭医学塾を開講した地です。
学校法人・順天堂により、昭和57(1982)年に建碑されました。
<講談発祥記念之碑>
旧碑が関東大震災で失われ、昭和59(1984)年に再建されました。
(碑文)
「由来の記
元禄の昔、赤松清左衛門は浅草見附辺の町辻で太平記を講じ 江戸講釈の発祥となった。これがのちに「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親しまれ、安政年間、「太平記場起原之碑」が建てられた。この碑はその後、当不動院境内に移され、大正十二年の関東大震災まで名物となっていた。
この度、当不動院と講談協会との因縁により、真言宗宗祖弘法大師一千百五十年御遠忌を記念し、相はかって茲に新たに建碑をなすものである。
昭和五十九年秋吉祥」