日本での飛行機による初飛行は、陸軍代々木練兵場(現在の代々木公園)において明治43(1910)年12月13日から19日までの間に行われました。
12月14日と16日に日野大尉のグラーデ機(独機)が飛行に成功し(非公式記録)、
12月19日に徳川大尉のアンリ・ファルマン機(仏機)と日野大尉のグラーデ機(独機)が飛行に成功しました(公式記録)。
この歴史的な経緯により朝日新聞社は昭和15(1940)年に紀元2600年を記念して「日本航空發始之地」碑を建てました。
<日本航空發始之地碑>
代々木公園に西門からはいると、案内標柱「→日本航空発始之地記念碑」(日本航空発始之地顕彰保存会)が建てられています。
公園内を進むと左右に大きく翼をひろげた鳥の石碑「日本航空発始之地記念碑」が、
さらにその左前方に 徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉の像が建っています。
さらに石碑の右後ろに標柱「日本初飛行離陸の地」が建っています。
(碑表)
「日本航空發始之地
陸軍大将井上幾太郎書」
(碑陰)
「紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社」
(説明板)
「日本初飛行の地
1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式復葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。
日本航空発始之地記念碑
建立 朝日新聞社
設計 今井兼次
彫刻 泉二勝麿
徳川好敏之像
建立 航空同人会
彫刻 市橋敏雄
日野熊蔵之像
建立 航空五〇会
彫刻 小金丸義久
東京都 昭和49年12月」
<日本初飛行離陸之地>
(標柱)
「日本初飛行離陸之地」
「日本航空発始之地顕彰保存会」
<日野熊蔵之像/徳川好敏之像>
左に「日野熊蔵之像」、右に「徳川好敏之像」と並んでいます。
「日野熊蔵之像 美土路昌一書」
「限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖國のため
限りある現世の定命をささぐ」
(銘板)
「翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである
昭和四一年四月二十三日
松野頼三」
(銘板)
「飛行機唱歌
明治四十四年六月十七日作
作詞 日野熊蔵
作曲 岡野貞一
勇み立つたる推進機の
響きは高し音高し
時こえてよけれ放てよと
弓手を挙ぐる一刹那
御國を守るますらをよ
勲立つる戦場は
かの大空にありと知れ
平成十七年四月十七日
日本航空発始之地顕彰保存会
航空碑奉賛同人会」
「日本航空の父 徳川好敏之像 井上幾太郎書」
(銘板)
「誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米
飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった
昭和三十九年四月十七日
赤城宗徳
像作者 鋳金家 市橋敏雄」
(銘板)
「至誠
通神
好敏
平成十七年四月十七日
日本航空発始之地顕彰保存会
航空碑奉賛同人会」
「陸軍軍用機」(昭和18年)より抜粋
グラーデ単葉機
アンり―・フアルマン機
案内板に記された「十四烈士の碑」、何だろうと寄りました。
参宮橋門から入って右手の雑木林の中に、「十四烈士自刃の處」と刻んだ石碑がありました。
右翼結社「大東塾」の14人が終戦から10日後の昭和20年8月25日、割腹自決した場所でした。
(碑表)
「大東塾十四烈士自刃之處
昭和二十年八月二十五日早暁 元代々木練兵場の一角なる此の處に於て 塾長代行影山庄平翁以下十八歳の少年に至る十四名の大東塾々生 古式に則り 一齊に壮烈極りなき割腹自刃を遂げ 以て大東亜戰争終戰の大難に殉じ 祖國再建の尊き人柱に立つ
十四烈士共同遺書 清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ
影山庄平翁辭世歌 こんとんをひらきて今や天地の始發の時と祈り行くなり
國うれふやたけ心のきはまりて静かなるかも神あがるとき」
(碑陰)
「昭和五十六年八月
遺族並に大東塾・不二歌道會一同建之」
<十四烈士 自刃之處>
「十四烈士 自刃之處
昭和廿年八月廿五日早朝
昭和丗四年四月遺族同志建立」
(説明板碑)
「建碑由来
十四烈士自刃当時 当地は代々木練兵場であったが 米占領軍は進駐直後にこれを接収 将校宿舎ワシントンハイツを建設 日本人の立入りを禁止した
昭和二十七年講和条約が発効するや影山正治塾長はこの自刃現場の返還を求めたが交渉は難航した しかし諸方諸氏の献身的努力により昭和三十三年に到り 建立する碑の
高さ大きさに制限を付して漸く許可となり 翌三十四年この碑が建立された
昭和三十九年東京オリンピックに当り この全域はその選手村として米軍より日本に返還されその終了後 東京都は代々木公園を造成開園 漸く日本国民が自由に参拝出来るやうになった
当地は以上の如き経緯を有するが 建碑に当っては米軍進駐前に採取した血染の砂が碑の下に納められてゐる」
(碑陰)
「平成十一年八月二十五日
大東塾・不二歌道会建之」