江戸開府以降、下級幕臣の住地となり、湯島天神の門前町が発達しました。
湯島天神は、学問の神様として尊崇され、境内では富くじも行われました。
元禄年間(1688-1704)に上野忍ヶ岡から孔子を祀る聖堂が移転、
敷地内には昌平坂学問所が設けられ幕府公認の教育機関となりました。
聖堂の西には幕府の馬場(桜馬場)が設けられ、幕末には大砲鋳造場とされました。
○ 湯島天満宮
○ 切通坂/石川啄木歌碑 別頁
○ 湯島聖堂
○ 妻恋神社 別頁
○ 芥坂(立爪坂) 別頁
○ 麟祥院 別頁
太田道灌が文明10(1478)年に再興しています。
「江戸名所図会 湯島天満宮」
「湯島天神の富札」(江戸の今昔 歌川広重他 昭和7年)
湯島天神の富札は、江戸市中に売り出され、抽選日は寺社奉行立会の上、札を突いて番号が決まります。
当選者は千両が当ると大流行しました。
「江都名所 湯しま天神社」(広重)
富札専門店の札屋が見えます。
「千両」と書かれた紙や棚に並ぶ富札が見えます。
「名所江戸百景 湯しま天神坂上眺望 」(広重)
昔は、不忍池の眺望が良いですね。
「江戸名所百人美女 湯島天神」(豊国、国久)
手習中の少女が恋文を隠している様子が描かれています。
天和3(1683)年、恋人に会いたい一心で放火した八百屋お七は、15歳以下ならば罪を一段引き下げて遠島ですむところを、
湯島天神に奉納した「松竹梅」の掛額に年齢が記されていたことから16歳であることが判明し(感応寺に奉納した額との設定もあります)、
鈴が森にて火炙りの刑に処せられます。
「江戸名所道化尽 九 湯嶋天神の台」(歌川広景)
眺望良く、不忍池が見える湯島天神の境内での光景です。
出前中の蕎麦屋が犬に足を噛まれ、蕎麦をぶちまけてしまい、
それを頭からかぶってしまったお侍さんです。
「東京名所 ゆ嶋天神」(井上探景(井上安治))
<几号水準点>
南側参道入口の左側の青銅表鳥居(東京都指定有形文化財)の基台中央に「几号水準点」が刻まれています。
<境内案内図>
<本殿と牛>
「婦系図」の作者である泉鏡花の「筆塚」です。
昭和17(1942)年に、里見惇、久保田万太郎、岩田藤七らによって建てられました。
<奇縁氷人石>
迷子しらせ石標です。境内は相当に賑わったことが推察されます。
<講談高座発祥の地>
(碑文)
「講談高座発祥の地
橘流寄席文字 橘 左近 謹書
江戸時代中期までの講談は 町の辻々に 立っての辻講釈や 粗末な小屋で聴衆と
同じ高さで演じられていた
文化四年(一八○七)湯島天満宮の境内に住み そこを席場としていた講談師伊東燕晋が 家康公の偉業を読むにあたり 庶民と同じ高さでは恐れ多いことを理由に 高さ三尺 一間四面の高座常設を北町奉行
小田切土佐守に願い出て許された これが高座の始まりであり 当宮の境内こそ我が国伝統話芸 講談高座発祥の地である
平成十七年十一月吉日
六代目 一龍斎貞水 建立
発起人代表
文京区 区長 煙山 力
湯島天満宮 宮司 押見守康」
<瓦斯灯>
説明板を撮って、男坂を上がった鳥居の傍らの瓦斯灯は撮り損ねました。
有志により昭和53(1978)年に建てられた碑です。
湯島聖堂は、1690(元禄3)年、5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟で、
後に幕府直轄の昌平坂学問所が設けられました。
関東大震災で焼失した湯島聖堂を復興するための聖堂復興期成会で、渋沢栄一は副会長となり、
聖堂再建に尽力しました。(出典:公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターブログ)
(説明板)
「聖堂 SEIDO 孔子廟、神農廟と昌平坂学問所跡 SHRINE OF CONFUCIUS,
SHRINE OF SHINNO AND THE SITE OF SHOHEIZAKA COLLEGE
・所在地 東京都文京区湯島一丁目4番25号
・敷地面積 13.915u
・国の史跡指定 大正11年(1922)3月8日
・所管 国有財産 文化庁・東京都教育委員会・文京区教育委員会
・管理者 公益財団法人 斯文会
■湯島聖堂と孔子 孔子 は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省済寧市曲阜)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄3年(1690)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら『論語』の講釈を行うなど学問を奨励した。
■昌平坂学問所跡 寛政9年(1797)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。
学問所は、明治維新(1868)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。
学問所教官としては、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一齋)、安積艮齋、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一齋、安積艮齋らはこの地が終焉の地となっている。
■近代教育発祥の地 明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年(1871)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。
■現在の湯島聖堂 もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正12年(1923)関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。
正門・聖橋門・西門は毎日開かれ、どなたでも入構できます。」
(説明板)
「説明
寛永九年(一六三二)、尾張藩主徳川義直林道春(羅山)をして、上の忍ヶ丘に先聖殿を造営せしめしに始まる。その回禄(火災)の災に罹るや、元禄三年(一六九○)、将軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と称せり。後、寛政十一年(一七九九)大成殿及び杏壇・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大学を此地に置くに及び、一旦孔子以下の諸像を撤去せしも、後、旧に復せり。
建造物は暫らく東京博物館の一部に充てたりしが、大正十二年(一九二三)区九月一日、関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和十年四月四日鉄筋混凝立構造に依りて原型に復せり。
昭和十一年三月 文部省」
<史跡案内図>
<仰高門>
<孔子像>
昭和50(1975)年に中華民国台北市ライオンズ・クラブからの寄贈です。
丈高4.57メートル、重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大です。
<楷樹>
(説明板)
「楷樹の由来
楷 かい 学名 とねりばはぜのき うるし科
PISTACIA CHINENSIS BUNGE
楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で 初め子貢が植えたと伝えられ 今日まで植えつがれてきている 枝や葉が整然としているので 書道でいう楷書の語源ともなったといわれている
わが国に渡来したのは 大正四年 林学博士 白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り 東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが 生来雌雄異株であるうえ 花が咲くまでに三十年位もかかるため わが国で種子を得ることはできなかったが 幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので 今後は次第に孫苗が増えてゆくと思われる。
中国では殆んど全土に生育する 黄連木黄連茶その他の別名も多く 秋の黄葉が美しいという台湾では燭心木とよばれている 牧野富太郎博士はこれに孔子木と命名された
孔子と楷とは離すことができないものとなっているが 特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える
昭和四十四年巳酉秋日 矢野一郎 文
平成二十年戊子秋日 松川玉王 書」
<杏壇門>
<大成殿(孔子廟)>
中央の神龕(厨子)に孔子像。左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人を祀っています。
「江戸名所図会 聖堂」
左手に「此辺学問所」と書かれています。
「名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川」(広重)
「絵本江戸土産 昌平橋聖堂」(広重)
「名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川」と「絵本江戸土産 昌平橋聖堂」
神田川の下流と上流からと異なったアングルで描かれています。
「湯島元聖堂の景」(小林清親)
明治初期の相生坂上から坂下を眺めたところを描いています。
左手に湯島聖堂、右下に眼鏡橋(現:万世橋)が見えます。
「湯島台白聖堂の月」(井上安治)
「博覧會諸人群集之圖 : 元昌平坂ニ於テ」(昇齋一景 明治5(1872)年)
「東京名所三十六戯撰 元昌平坂博覧会」(昇齋一景)
博覧会に出品された名古屋城の金のシャチホコに見物客はびっくりです。
「東京開化狂画名所 聖堂坂 鳶松魚を浚ふ」(月岡芳年 都立図書館蔵)
タイトルには聖堂坂とありますが、昌平坂のことでしょうか?
鳶がカツオをさらっていきました。