○ 入谷朝顔発祥之地
○ 入谷乾山窯元碑
○ 入谷鬼子母神
〇 入谷朝顔
○ 小野照崎神社
○ 正洞院 別頁
○ 三島神社 別頁
〇 東叡山坂本口 別頁
○ パンダグリーンポスト 別頁
入谷交差点に、「入谷朝顔発祥之地」碑があります。
(説明石板)
「入谷の朝顔について
入谷の朝顔は、明治2年近傍の寺院で鉢植を造って、人々の縦覧に供したのが、そのはじまりとされているが、15、6年ごろから朝顔は天下の名物となった。その後大正2年以来永らく中絶されていたが、第2次世界大戦後地元の復活運動によって昭和25年7月から再開され、今や東京の年中行事の1つとなっている。ついては、われらは往時の盛事をしのび、入谷朝顔の発祥の地として、ここに記念碑を建立するものである。
入谷から出る朝顔の車かな 子規
1956年7月6日 下谷北部観光連盟」
入谷交差点に、「入谷乾山窯元碑」があります。
説明板はありません。
尾形乾山は琳派を創設した画家の尾形光琳の弟で、寛文3(1663)年に京都で生まれました。
画家としてだけではなく、書道や茶道にも精通し、
陶芸では享保16(1731)年に入谷に窯を開き、作品は「入谷乾山」と呼ばれました。
寛保3(1743)年に亡くなり下谷坂本にあった善養寺に葬られます。
明治末期に、鉄道建設に伴う善養寺の西巣鴨への移転に際し紆余曲折があり、
尾形乾山墓碑・乾山深省蹟の両碑は、鶯谷にあった料亭「伊香保楼」(国華倶楽部事務所)の庭に移され、
大正10年には寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねました。
なお、両碑の複製が寛永寺境内に安置されています(天台宗HPを参照しました)。
(参考)「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟(寛永寺)」(こちらで記載)
(参考)「尾形乾山の墓 東京都旧跡(善養寺)」(こちらで記載)
仏立山真源寺と号します。万治2(1659)年に創建され、「入谷鬼子母神」(いりやきしきしもじん)の名称で有名です。
入谷鬼子母神では、子育ての善神になった由来からツノのない「おに」の文字を使っています。
雑司ヶ谷鬼子母神堂、中山法華経寺とともに江戸三大鬼子母神として多くの崇敬を集めています。
毎年7月の七夕に朝顔市が行われます。
(説明板)
「入谷鬼子母神(いりやきしもじん) 台東区下谷一丁目十二番十六号 真源寺内
入谷鬼子母神は、日蓮上人の尊像とともにここ眞源寺内寺に祀られている。眞源寺は、万治二年(一六五九)日融上人により創建された。
鬼子母神は、鬼神般闍迦の妻で、インド仏教上の女神のひとりである。性質凶暴で、子どもを奪い取っては食べてしまう悪神であった。釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたという。以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。
入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない「鬼」の字を使っている。
また、七月上旬、境内および門前の道路沿いは「朝顔市」で賑わう。入谷名物となったのは明治に入ってからで、十数軒の植木屋が朝顔を造り鑑賞させたのがはじまりといわれている。当時この地は、入谷田圃といわれ、朝顔や蓮の栽培に適していた。
大正初期、市街化により朝顔市は途絶えたが、昭和二十五年復活。以後、下町情緒豊かな初夏の行事として親しまれている。
平成六年三月 台東区教育委員会」
<福禄寿堂>
下谷七福神の福禄寿を祀っています。
<百度石>
「百度石」があります。
<鬼子母神堂>
鬼子母神堂の賽銭箱に「ざくろ紋」、引戸に「ざくろ紋」、
屋根瓦には「鶴紋」と「ざくろ紋」が施されています。
<戦災慰霊碑>
入谷周辺は、寺社の畳需要が多く、「畳刺」(畳職人)が多く住んでいました。
(碑表)
「戦災慰霊碑」
(碑陰)
「昭和四十二年三月九日 浅草畳工業組合建立」
<畳針供養>
左は、題目塔「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」、
右は、「畳針供養」です。
<日朝上人坐像>
眼病平癒にご利益があると言われています。
<正岡子規句碑>
ザクロの木の陰に、正岡子規らの石碑があります。
正岡子規の2句と、この寺の日東という人の1句の、3句が刻まれています。
「漱石来る
蕣や 君いかめしき 文學士 子規」
「入谷から 出る朝顔の 車哉 子規」
「朝顔も 入谷へ三日 里帰り 當山 日東」
<文化・文政期の朝顔ブーム>
下谷御徒町の下級武士、御徒目付の間で、副業として盛んに朝顔が栽培されました。
「文化丙寅の大火」(文化3(1806)年)後、変化朝顔が流行し、文化・文政期(1804〜1830年)のブームが訪れます。
植木屋が進出し、「朝顔屋敷」と称して種々の変化朝顔を見物させ「下谷朝顔」として名所となっていました。
「江戸名所花暦」によると
「牽牛花(あさがお) 下谷御徒町辺
朝顔は往古より珎賞するといへとも、異花奇葉の出来たりしは、文化丙寅の災後に下谷辺空地の多くありけるに、植木屋朝顔を作りて種々異様の花を咲せたり。おひ/ひろまり文政はしめの比は下谷浅草深川辺所々にても専らつくり朝顔屋敷なと号て見物群集せし也。」とあります。
<嘉永・安政期のブーム>
下谷御徒町が復興して空き地がなくなっていくと、入谷で変化朝顔の栽培がはじまります。
嘉永・安政期(1848〜1860年)の第2次変化朝顔ブームです。
変化朝顔の作り手は、主に武家と植木屋でした。
武家では、旗本の鍋島直孝、植木屋では成田屋(山崎留次郎)が代表としてあげられます。
多数の朝顔図譜や、「花合わせ」(品評会)に出品された朝顔を記した番付表が出版されます。
「三都一朝」(成田屋留次郎 嘉永7
[1854]年 国立国会図書館蔵)
「成田屋」と「丸新」の朝顔を抜粋します。
「朝顔三十六花撰」(嘉永(1854)年 国立国会図書館蔵)
<明治20年代のブーム>
明治となり、御徒町の発展と江戸幕府の崩壊に伴い、入谷で十数軒の植木屋が朝顔を造るようになります。
もともと入谷一帯は、千束池と呼ばれる沼沢地でしたが、天正年間(1573〜1592年)に干拓され、
入谷田圃と称し江戸時代から切り花、鉢物栽培の産地でした。
朝顔市は明治2(1869)年に始まり、明治20年代には、往来止めをしたり、木戸銭を取って見せるほど有名になります。
この頃は、花の好みは変化咲から大輪咲へと変化していきます。
入谷の市街化が進み、植木屋が他所へ移転や貸家を建てる等次々と廃業していき、
最後の植木屋「植松」が大正2(1913)年に廃業し、朝顔市は途絶えます。
昭和23(1948)年に「朝顔まつり(朝顔市)」(HP)が復活しました(昭和25(1950)年説もあります)。
毎年7月の6日から8日までの3日間開催されます。
入谷鬼子母神を中心として、言問通りに30数軒の朝顔業者と、100軒近い露店が並び、毎年約10万人の人出で賑わいます。
<正岡子規の句>
正岡子規は多くの蕣の句を詠んでおり、朝顔市に関する句もあります。
「蕣は開く間に売られけり」
朝顔が花を開かせる早朝の間に売れていきます。
「入谷から出る朝顏の車哉」
朝顔の鉢でいっぱいにした大八車が出ていきます。
「蕣の入谷豆腐の根岸哉」「蕣に朝商ひす笹の雪」
根岸にある豆腐料理専門店「笹乃雪」は、朝顔市期間中は早朝から営業しているのです。
「漱石来る 蕣や君いかめしき文学士」
夏目漱石は明治26年7月10日に帝大を卒業し文学士の称号を得たばかり、明治26年8月末に文学士漱石が来ました。一方の子規は帝大中退です。
入谷鬼子母神にこの句が刻まれた句碑があるので、漱石は朝顔市を観に来たのかと思いましたが、すでに終わっています。
<入谷土器>
「入谷土器」は、江戸時代から明治時代にかけて入谷(当時は坂本村)で生産された焼き物です。
農閑期の副業として主に植木鉢や灯明具などが作られ、当時の生活や園芸ブームを支える日用品が広く流通しました。
『新編武蔵風土記稿』によれば、里俗に坂本村を「入谷」といったため、「入谷土器」と称しました。
なお、尾形乾山が入谷に工房を置いて焼き物を行ったことが知られています。
「東京自慢十二ケ月 六月 大蘇芳年画 1880年」「東京名所
花競 入谷蕣(あさがお)安達吟光」
「三十六花撰 東都入谷朝顔」「江戸の花名勝会 る
十番組 中山文五郎 入谷の鬼子母神」
「入谷鬼子母神」(眞源寺)境内には4枚の浮世絵が掲げられています。
国立国会図書館所蔵本から抜粋します。
竹村伊勢大掾(だいじょう)は、新吉原江戸町二丁目にあった菓子司です。
朝帰りで奥方から頭を小突かれている朝の顔といったところでしょうか。
「東京花名所 入谷のあさ顔」(三代広重 明治12年 台東区立図書館蔵)
朝顔を展示し販売する入谷の植木屋の風景が描かれています。
手前に咲いているのは、花弁が八重になっている「牡丹咲」という変化朝顔です。
「開明東京名勝 入谷成田屋庭中の蕣」(三代広重・二代国明 明治14年頃 台東区立図書館蔵)
変化朝顔を普及させた入谷の有名植木屋「成田屋」の庭が描かれています。
女性の視線が注がれる真紅の牡丹咲きの朝顔は、他の素焼きとは異なり、染付植木鉢に植えられています。
絵の奥には、天秤棒に朝顔をかついで売りに行く行商人「棒手振り」あるいは朝顔の配達人が見えます。
「東風俗福つくし HUKURIN ふくりん」(楊洲周延 明治23年 台東区立図書館蔵)
幟に「朝がほ 丸新」とあるので、入谷の植木屋「丸新」の「百草園」が描かれているのがわかります。
入谷の地で成田屋とともに「朝顔栽培」始祖の植木屋が「丸新(平井新次郎)」です。
「美人名所合 入谷の朝顔」(尾形月耕 明治34年 台東区立図書館蔵)
幟に文字が見えますが読み取れません。変化朝顔も見えます。
「入谷朝顔」(東京風景 小川一真出版部 明治44年 国立国会図書館蔵)
キャプションには、「入谷町朝顔園の光景也」とあります。
「絵葉書 朝顔市(台東区)」(昭和40年代 台東区立図書館蔵)
「朝顔売り」(江戸年中風俗之絵 橋本養邦)
家の窓に直接朝顔を売っています。
朝顔売りは、花の咲いている時間に売り歩くため、商いは早朝から昼まで行いました。
「植木屋(朝顔)」(日本之名勝 史伝編纂所 明治33(1900)年)
明治時代の植木売り(朝顔)の写真です。
<強烈な努力>
「強烈な努力が必要だ
ただの努力じゃダメだ
強烈な、強烈な努力だ」
囲碁棋士・藤沢秀行名誉棋聖の絶筆である「強烈な努力」と刻まれた記念碑と、
強烈な努力の内容が刻まれた碑があります。
病院のベッド上のテーブルで書いたので、縦書きではなく横書きだそうです。
「狭苦しい墓には入らない。美しい周防灘の海から世界へ旅立ちたい」との遺志により、
山口県周南市大津島沖で散骨が行われ、お墓はありません。
(碑文)
「碁は芸である
碁には個性、生き方、その人間のすべてがあらわれる
無限に続く芸の道は厳しいが
ひたむきに歩むものは幸せだ
人間を高め、力をつけよ
自分にしか打てない碁を探求せよ
これだけは伝えたい
強烈な努力が必要だ
ただの努力じゃダメだ
強烈な、強烈な努力だ
藤沢秀行
大正一四年六月一四日生
平成二一年五月 八日逝
藤沢秀行名誉棋聖の功績と志を後世に伝えるべく
絶筆の書を刻印せし碑をここに建立する
平成二十二年八月二十八日
藤沢秀行名誉棋聖を偲ぶ会実行委員会」
<小野照崎神社>
(説明板)
「小野照崎神社 台東区下谷二丁目十三番十四号
小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として著名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰路の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿二年(八五二)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永二年(一六二五)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄四年(一六九一)頃に遷座したのではないかともいう。
現在の社殿は慶応二年(一八六六)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社・さらには庚申塔が現存する。
例大祭は五月十九日で、三年に一度、本社の神輿渡御が行われる。
平成十一年三月 台東区教育委員会」
「江戸名所図会 小野照崎神明社」
「江戸切絵図」
「小野照崎社」「庚申」部分の抜粋です。
<日本三庚申 庚申塚>(昭和34年)
庚申塔が11基あり、最古のものは正保2(1647)年。
力石が周囲に配されています。
「江戸名所図会 入谷庚申堂」
庚申塚は、現在は消失した「入谷庚申堂」からの移設のようです。
<下谷坂本の富士塚>
国の重要有形民俗文化財です。
6月30日と7月1日に山開き神事が行われます。
その日以外は立ち入ることができないので、富士塚は草茫々です。
(説明板)
「下谷坂本の富士塚
この塚は模造の富士山で、文政十一年(1829)の築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の?富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。
東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富士山信仰は宝町末期頃に起り、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メートル、塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
平成六年三月 台東区教育委員会」
<御嶽神社/三峰神社/琴平神社>
<長左衛門稲荷神社/織姫神社>