Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 日本橋人形町

  ○ 元吉原
  ○ 大門通り
  ○ 末廣神社

  ○ 人形町の由来
  〇 堺町・葺屋町芝居町跡
  〇 芳町と陰間茶屋 別頁
  〇 百尺 別頁

  〇 大観音寺 別頁
  〇 蛎殻銀座跡
  ○ 江戸からの商業地
  ○ からくり櫓

  〇 甘酒横丁
  ○ 谷崎潤一郎生誕の地
  〇 鯨と海と人形町
  〇 西郷隆盛屋敷跡
 
 日本橋富沢町 別頁

  ○ 富沢稲荷神社
 
 日本橋堀留町 別頁

  ○ 椙森神社
  ○ 堀留川(小舟町 小網町 人形町 堀留町)
 
 日本橋蛎殻町 別頁

  ○ 水天宮
  ○ 江戸こまた


元吉原

 かつて人形町にあった、葭原遊廓(後に縁起をかつぎ吉原遊郭)は、
 元和3(1617)年に葭の繁茂する湿地を埋立てて造成され、掘で囲んだ遊郭は江戸一番の歓楽の地となりました。
 明暦3(1657)年の大火で消失した吉原遊廓は、40年の歴史を閉じ、新吉原へ移されました。

<かつてあった元吉原の説明碑> 中央区日本橋人形町2-4-3

 駅のリニューアル工事を行っていて、「元吉原」の説明碑がありません。
 工事は令和4年3月31日までです。工事が終わって戻るのかどうか。
 ※工事は令和6年6月30日までとなりました。

   

<元吉原>

 説明板が復活しています。

(説明板)
「元吉原
 江戸時代の初め 元和3年(1617)に葦の繁茂する湿地を埋立して造成されたのがこの土地です。
 一方、14,000余坪を堀で囲んだ遊廓は江戸一番の歓楽の地と成りました。
 しかし、明暦3年(1657)の江戸の大火で焼失した吉原遊廓は39年間この地で栄えましたが、浅草山谷へ移されました。
 後地は、新和泉・住吉・高砂・浪花の4ヶ町の商業の地となり、周辺の商店と共に大いに繁昌し今日に受けつがれています。」

    

<人形町界隈の歴史>「隅田川テラス周辺案内図」(清洲橋西詰の南側)

 清洲橋西詰にある「隅田川テラス周辺案内図」に、吉原遊郭について説明があります。

「◆人形町界隈の歴史
江戸初期、今の中央区人形町付近は葭(よし)の生い茂る低湿地でしたが、幕府公認の遊里ができると、一帯は一転して歓楽の地となりました。明暦の大火(1657)で吉原遊郭が焼失した後は、中村座、市村座を中心とする芝居町となり、歌舞伎芝居の客で賑わいました。土産の人形を売る店が増えたため、付近の町々を総称して“人形町”と俗称するようになりました。」

  

「新添江戸之圖」(国立国会図書館蔵)

 明暦の大火の直前に描かれた江戸之図に、吉原遊郭が描かれています。
 北に1ヶ所だけ橋がかかっているのが見えます。

  


大門通り 中央区日本橋小伝馬町18〜日本橋人形町2-14

 「大門(おおもん)通り」のプレートがあるのは、遊郭「元吉原」があったことの名残りです。
 かつては、遊郭の中央を南北に「大門通り」が貫いていました。
 人形町2丁目はプレートの標識ですが、人形町3丁目からは電柱の表示となっています。

<大門通りの標識> 中央区日本橋人形町2-20-3

 甘酒横丁との交差点に「大門通り」の標識があります。
 ここは遊郭の大門通りの水道尻の先で、遊郭の外です。
 一方通行の大門通りを進んで、3つ目の交差点から先(末広神社のある通りから先)が遊郭内です。

   

<大門通り>

 一方通行のごく一般的な道路です。

   

<大門通りの標識> 中央区日本橋人形町2-7-8

 こちらのプレートは、かつての大門内(遊郭内)にあります。

    

<電柱の標識> 中央区日本橋人形町3丁目

 信号の交差点を越えて人形町3丁目に入ると、電柱での「大門通り」表示となります。
 2つ目の交差点(人形町3-12)が、「元吉原大門跡」とgoogle mapに表示されています。

  

「江戸名所図会 大門通」

 挿絵には
 「昔此地に吉原町ありし頃の大門の通りなり しかによりかく名つく 今は銅物屋馬具師多く住り」
 「鐘ひとつ うれぬ日もなし 江戸の春 其角」とあります。

 大門通には、銅物屋、馬具屋が多くありました。
 右の店では、仏具が売られています。灯篭、燭台、神盃などなど。梵鐘は大きなものから小さなものまで売っています。
 店内でお茶を出されている客は、僧侶です。
 左の菊屋の屋号の店では、馬具、甲冑の武具を売っています。
 店内の客は刀を差した武士です。
 道には、梵鐘を載せた大八車を6人で運んでいます。

  


末廣神社 中央区日本橋人形町2-25-20 HP

<末広神社由来>

 末廣神社の名前は、延宝3(1675)年の社殿修復時に見つかった「中啓(末廣扇)」に由来します。
 元和3(1617)年、庄司甚右衛門らが幕府から許可を得て、未開の沼地を開拓し、江戸町一、二丁目・京町一、二丁目を定めました。
 これが江戸で初めての遊郭「葭原(吉原)」となり、末廣神社は、その地主神産土神として信仰されていました。
 明暦2(1656)年、幕府は葭原の移転を言い渡し、さらに翌年の「明暦の大火」により葭原は焼失しました。
 同年、遊郭は現在地へ移転し「新吉原」が開かれました(末廣神社HPを参照しました)。

 提灯には「元葭原総鎮守 末廣神社」、幟には「元葭原総鎮守 末廣神社」とあります。

     

(説明板)
「末廣神社
一、祭神 宇賀之美多摩命
一、例大祭 五月
一、氏子 人形町二丁目浪花会・人形町二丁目二之部町会
一、沿革
 末廣神社は、江戸時代の初期に吉原(当初葭原と称した)がこの地にあった当時(元和三年から明暦三年まで)その地主神産土神として信仰されていました。明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の四ヶ所の氏神として信仰されていました。
 社号の起源は、延宝三年社殿修復のさい年経た中啓(扇)が発見されたので氏子の人達が悦び祝って末廣の二字を冠したものです。」

  

「江戸切絵図」

 末廣神社は、吉原移転後は、その跡地、難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の四ヶ町の氏神として信仰されていました。

  

<玉垣>

 「葭町芸妓芸妓屋組合」奉納の玉垣があります。
 「芳味亭」や「今半」の文字も見えます。
 吉原遊郭が移転した後、花街として繁栄した歴史を語っています。

    

<手水鉢と参道>

 狭い神社で参道も短いのですが、ひととおり揃っています。

   

<石徳/見番さんのお稲荷>

 様々な徳を授け高める力があるといわれる「石徳」と、
 見番さんのお稲荷さんがあります。

   

<「は組」の石碑>

 火消しの石碑(木遣石)は、よく見るところです。

(説明板)
「は組の石碑(木遣石とも言われています)
 古い文献をひらくと「その昔、火消し役の関伊織久盛、青山鉄之助、青柳勘四郎、鈴木伊勢守、寺社奉行 青山因幡守、町奉行小田伊豆守、能勢肥後守 などその当時祭礼に仕え奉りて産子の益、人弥益々に立栄くる」とあり、当時より末廣神社の祭礼には多くの武士が関わっていたことがわかります。
 当時、江戸でも多くの火消しがいた火消屋敷(現在でいう消防署)が当社近くの浜町にあり、この付近一帯の防災を担っていたため、当社への火消し達の信仰も特に篤かったと考えられます。
 火消しの「いろは組」の石碑が神社に奉納され現存しているのは珍しく、火災や災害の多かった当時の江戸の人々の火伏せ・災難除けを願う神への崇敬心の深さが伺われます。」

    

<拝殿>

 「人生草露の如し辛艱 何ぞ虞るるに足らん 吉田松陰」の掲示があります。
 「末廣酒造(株)」奉納の樽酒があります。
 かつて日本橋に支店を出していた時に氏子だったのでしょか、それとも「末廣」繋がりでしょうか。

     


人形町の由来

 人形町通りの説明板を見ていきます。

(説明板) 中央区日本橋人形町1-18-12
「人形町の由来
The History of the Name of the Ningyocho
江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居、浄瑠璃芝居、見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和8年になってからです。」

     

(説明板) 中央区日本橋人形町2-6-5
「人形町の由来
The History of the Name of the Ningyocho
江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居、浄瑠璃芝居、見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和8年になってからです。」

    

○人形町の由来 中央区日本橋人形町1-18-12

(説明板)
「現在の人形町交差点北側一帯には、江戸唯一の歓楽街が在りました。中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また見世物小屋をはじめ人形芝居の小屋が5,6軒あり、そのため、かなりの人形師がこの町に住んでいたので、江戸時代より俗に人形町と呼ばれ親しまれてきました。」

    


堺町・葺屋町芝居町跡 中央区日本橋人形町3-6-7

 江戸時代、堺町・葺屋町の界隈は、芝居小屋や茶屋などが多数集まる「芝居町」としてにぎわいました。
 堺町に「中村座」、葺屋町に「市村座」があり、堺町と葺屋町は、あわせて「二丁町」と呼ばれていました。
 堺町・葺屋町の芝居小屋は、天保の改革により、天保13(1842)年に浅草猿若町に移転しました。

  

(説明板)
「堺町・葺屋町芝居町跡
  所在地 中央区日本橋人形町三丁目二〜七番地域
 堺町は慶長年間(一五九六〜一六一五)に沼地を埋め立てて起立されたといわれ、明暦二年(一六五六)のころには西半分の上堺町が葺屋町として分かれ、東半分の下堺町は堺町として残りました。
 江戸時代、この辺りには芝居小屋やそれらを取り巻く茶屋などが集まっており、大変賑わっていました。芝居小屋のなかには、江戸三座と呼ばれた官許の芝居のうち、歌舞伎を興行した中村座と市村座(ほかに現銀座六丁目あたりの森田座)があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数ありました。江戸三座筆頭である中村座は、京より江戸に移り住んだ猿若勘三郎が、寛永元年(一六二四)に猿若座(後の中村座)を中橋南地(現京橋一丁目辺り)に創設し、これが現在につながる江戸歌舞伎の発祥となりました。寛永九年には禰宜町(現日本橋堀留町一丁目辺り)に、慶安四年(一六五一)には下堺町へと移転し、二代勘三郎のとき本姓の中村を名乗り「中村座」と改称しました。この間、堺町では、上堺町において寛永十年に都座が、寛永十一年には村山座(後の市村座)が創設されました。
 歌舞伎に先んじて京より下ってきたのが人形浄瑠璃でした。猿若座と同じ中橋の地において、元和三年(一六一七)には興行が始まっていたようです。やはり寛永九年禰宜町移転を経て、慶安四年下堺町に移されました。人形浄瑠璃の芝居小屋は、江戸、薩摩、丹波、天満、土佐、虎屋、肥前など、数多くありました。
 堺町・葺屋町の芝居小屋は、天保の改革により天保十三年(一八四二)から翌十四年にかけて、猿若一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目あたり)を起立してそこに移されるまで、二百年前後この地にありました。
 近年、日本橋人形町三丁目において調査が行われ、茶屋や芝居に関する物も出土しています。
  平成二十三年三月 中央区教育委員会」

   

「東都名所二丁町芝居繁栄之図」(広重)

  

「江戸名所図会 堺町 葺屋町 劇場」

 芝居小屋の賑わいが描かれています。
 手前に流れているのは東堀留川で、「親父橋」が架かっています。
 手前の葺屋町に「市村座」、奥の堺町に「中村座」が描かれています。
 向い側に操り座があります。
 裏通りは「楽屋新道」と呼ばれ、劇場の楽屋裏へと通じていた小路です。
 右手には江戸随一の男娼街である芳町が描かれています。
 この絵が描かれた直後、天保の改革により、天保13(1842)年に劇場は浅草猿若町に移転しました。

    

「江戸切絵図」

 切絵図から、「葺屋町」「堺町」部分の抜粋です。
 裏通りは「○カクヤシンミチト云」と記されています。

  

「東都名所 二丁町芝居図」(広重 シカゴ美術館蔵)

 画面右の手前が「中村座」、奥が「市村座」です。
 屋根の上に「櫓」(幕府公許の芝居小屋)が乗っています。
 「市川海老蔵丈」など、役者の名前を記した幟がはためいています。

   

「浮絵 堺町葺屋町顔見世夜芝居之図」(歌川豊春 東京国立博物館蔵)

 11月の「顔見世興行」で賑わう二丁町の様子が描かれています。西の空には夕焼けが見えます。
 右側手前に「中村座」、奥に「市村座」が描かれています。
 通りの左側には、人形芝居小屋の櫓が見えます。

  

「東都歌舞伎大芝居之図」(葛飾北斎 大英博物館蔵)

 芝居小屋の内部が描かれています。

  

「江戸名所百人美女 人形町」(豊国・国久)

 こま絵の店看板には「菊露香」とあります。
 人形町通りにあった女形の歌舞伎役者、瀬川菊之丞の白粉を売る化粧品店です。
 瀬川菊之丞は、化粧品店を副業としていました。
 美女は、白粉の「寿々女香」を手にしています。床にも化粧品が置いてあります。

   

(参考)
 「浅草猿若町」(こちらで記載


蛎殻銀座跡 中央区日本橋人形町1-17-8

 蛎殻銀座跡は、江戸時代後期から明治初期にかけて銀貨の鋳造が行われていた場所です。
 現在の中央区日本橋人形町1丁目に位置し、当時この一帯が蛎殻町と呼ばれたことから「蛎殻銀座」と称されました。

(説明板)
「蛎殻銀座跡
  所在地 中央区日本橋人形町一丁目五〜十一・十六(一部)・十七番地区
 江戸幕府の銀貨鋳造所として設立された「銀座」は、慶長十七年(一六一二)に駿府(現在の静岡県葵区両替町)に置いた銀座を閉鎖して、その機能を江戸へと移しました。江戸の銀座は、京橋南の町屋敷が鋳造方の長・大黒常是吹所(鋳造所・役所)と座人の居宅としてあてられました。なお、常是の拝領屋敷は、新両替町二丁目(現在の銀座二丁目)にあり、当地において通用銀貨類の鋳造と検査が行われました。
 その後、寛政十二年(一八〇〇)に座人の粛清が行われて一時廃絶(江戸大黒家は断絶)の憂き目に遭いましたが、代わって京都銀座の大黒家が江戸に下り、幕府から播磨国姫路藩酒井家屋敷の土地(元大坂町<現在の日本橋人形町一丁目4番・19番>の南)を拝領して銀座役所を再興しました。
 再興した銀座役所の敷地にあたる当該地は、古くから蛎殻町の俗称があったことから、この銀座は「蛎殻銀座」と呼ばれました。その後は、明治二年(一八六九)に明治政府の造幣局が新設されるまで約70年存続しました。
  令和二年三月 中央区教育委員会」

   

「江戸切絵図」

 「銀座」部分の抜粋です。

  

(参考)
 「銀座発祥の地 銀座役所跡」(こちらで記載


江戸からの商業地 中央区日本橋人形町1-16-10

(説明板)
「江戸からの商業地
 この地は往時武家地でしたが、近くを流れる日本橋川に通じる掘り割りが多く在り、物資の大量輸送を容易にし商業が盛んになる基礎をつくりました。
 明治に入って武家地の場所は、広く商業地となり、第五国立銀行をはじめ、米穀取引所が設けられ「米屋町」と呼ばれ活気がありました。現在も商業の中心地のひとつとして繁栄しております。
 明治に入って人形町通りも確立し、水天宮・明治座・商業地周辺にひかえた商店街として共に繁盛し、現在に続いています。」
「東京自慢人形町通り水天宮繁栄之図」(明治15年 国利)

   

   

「東京自慢人形町通り水天宮繁栄之図」(明治15年 国利 国文学研究資料館蔵)

  

○水天宮 中央区日本橋人形町2-2-1

 水天宮の説明があります。

(説明板)
「水天宮
 江戸時代は芝・赤羽橋の有馬藩邸内に在りましたが、明治になって藩邸が新政府に没収され、明治4年8月、赤坂に移り明治5年に、この地に移り同時に水天宮も移ってきました。明治11年5月、官許を得て以来、現在でも「水天宮さん」と呼ばれて親しまれ、特に安産を願う人達でにぎわっております。」

  


からくり櫓「町火消し」 中央区日本橋人形町1-17-4

 ※日比谷線人形町駅のリニューアル工事のため、からくり櫓「町火消し」は撤去されています。
  展示再開は2027年夏頃の予定です。

   

 「は組」の衣裳を着た人形が梯子乗りを披露します。もう1基が2丁目にあります。

(説明板)
「からくり櫓 町火消し
 江戸時代の町火消し「いろは47組」のなかで人形町界隈を担当したのは「は組」でした。
 当時の衣装などを再現した人形が「梯子(はしご)乗り」や「纏(まとい)上げ」を披露します。
 流れる唄はとび職人が祭りなどで唄う「木遣(きやり)」です。
 (社)江戸消防記念会第一区八番「は組」の方々に資料や助言の協力を頂きました。
 起動時間 午前11時から午後7時までの正時 約2分  平成21年11月完成」

    

   

○からくり櫓「江戸落語」 中央区日本橋人形町2-2

(説明板)
「からくり櫓 江戸落語
 下段の緞帳が開くと噺や家の人形が登場。
 落語家 立川談幸氏による創作小噺「人形町の由来」が流れます。
 上段の絵が回転すると、江戸の町並と町人たちの暮らしが再現されます。
 起動時間 午前11時から午後7時までの正時 約2分  平成21年11月完成」

     


甘酒横丁 中央区日本橋人形町/浜町 HP

 明治時代、横丁の入口に甘酒屋「尾張屋」(現在地:玉英堂彦九郎)があったことが呼び名の起源といわれる甘酒横丁です。
 東京メトロ人形町駅がある「甘酒横丁交差点」から明治座が立つ清洲橋通りまで、約400mの一方通行の横丁です。

    

(標柱)「甘酒横丁」 中央区日本橋人形町2-3、2-4

 甘酒横丁交差点の角に(標柱)「甘酒横丁」が2基あります。

 (標柱)
  「甘酒横丁
    建立 令和七年九月
    甘酒横丁商店会」

    

<人形町浜町散歩> 中央区日本橋人形町2-4

 「歴史と文化の散歩道」のコースの一つ「人形町浜町散歩」の案内板がありました。
 「人形町浜町散歩」は、兜町・鎧橋から人形町・浜町を経由して新大橋へ至る散歩コースです。

  


谷崎潤一郎生誕の地 中央区日本橋人形町1-7-10

 谷崎潤一郎は日本橋区蠣殻町2丁目14番地(現在地:中央区日本橋人形町1-7-10)で、
 祖父経営の谷崎活版所で生まれました。

   

 碑文には「松子書」とあり、谷崎潤一郎の3人目で最後の妻、随筆家の谷崎松子(1903年9月24日〜1991年2月1日)による書です。

(碑文)
「谷崎潤一郎生誕の地
  1886ー1965
 元東京市日本橋區蠣殻町二丁目十四番地
                 松子書」

  

(説明板)
「谷崎潤一郎生誕の地
    所在地 中央区日本橋人形町一‐七‐十
 谷崎潤一郎(一八八六〜一九六五)は、明治十九年七月二十四日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。
 同二十五年、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くて文学にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、第二次『新思潮』の同人となり、『刺青』『少年』など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文学界で名を成しました。
 のち、日本的な伝統美に傾倒し、『蓼喰ふ虫』『春琴抄』『細雪』『少将滋幹の母』などを遺しています。この間、昭和十二年、芸術会員に推され、同二十四年には文化勲章を受章していました。
  平成七年三月  中央区教育委員会」

  

鯨と海と人形町 中央区日本橋人形町1-6-10

 「鯨と海と人形町」という題のモニュメントがあります。
 あやつり人形のバネは鯨ヒゲが使われていることにちなんだモニュメントです。

   

(説明プレート)
「鯨と海と人形町
 作 松橋 博
   中田浩嗣
 あやつり人形のバネは今でも鯨ヒゲが使われています。
 特に人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲでなければ出せないそうです。
 ここ人形町一帯は寛永十年(一六三三)頃から、江戸歌舞伎の「市村座」「中村座」、人形浄瑠璃の糸あやつり人形結城座、手あやつり人形の薩摩座などの小屋が集まり、江戸町民の芝居見物が盛んでした。
そして、それらの人形を作る人形師や雛人形、手遊物などを商う店がたくさん立ち並んでいたところから、昭和八年、正式に人形町という地名になりました。
  (2002年7月)」

  


西郷隆盛屋敷跡 中央区日本橋人形町1-1

 西郷隆盛の屋敷跡地は、「中央区立日本橋小学校」の敷地にあります。
 もともとは姫路藩酒井家の中屋敷があった場所です。
 校門の脇に説明板「西郷隆盛屋敷跡」があります。
 西郷隆盛は、明治4(1871)年から明治6(1873)年までの約2年間、日本橋人形町に住んでいました。
 屋敷には長屋に一五人ほどの書生を住まわせ、下男を七人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。

 屋敷のすぐ近くの親父橋袂には千疋屋総本店(葺屋町)があり(こちらで記載)、
 西郷隆盛は店の常連で、特に大好物のスイカを毎日のように買い求めていました。

  

(説明板)
「西郷隆盛屋敷跡
  所在地 中央区日本橋人形町一丁目一番
      日本橋小網町十四番
      日本橋蛎殻町一丁目一〇〜一三番地域
 明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(一八ニ七〜一八七七)の屋敷がありました。
 明治六年(一八七三)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町一丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に一五人ほどの書生を住まわせ、下男を七人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
 維新後、西郷は郷里鹿児島にいましたが、明治四年に新政府から請われて上京し、参謀に就任、同年十月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允 等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
 明治六年になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。閣議でもいったんは西郷の使節派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました(明治六年の政変)。
 下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治十年に西南戦争を起こし自害しました。
  平成十九年三月 中央区教育委員会」

  

「江戸切絵図」

 酒井家中屋敷部分の抜粋です。
 ■で記されているので、中屋敷を表しています。

  


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