○ 上野恩賜公園
〇 袴腰広場
○ 国民栄誉賞手形
○ 蛙の噴水
○ 蜀山人の碑
○ 忠魂碑
○ 誹風柳多留発祥の地
○ 西郷隆盛像
○ 彰義隊の墓
○ 博士王仁碑
○ 時忘れじの塔
○ 擂鉢山古墳
○ トーテムポール/ソメイヨシノ基準木
○ グラント将軍植樹碑
○ 小松宮彰仁親王銅像
○ ボードワン博士像
明治6年に太政官布告により公園に指定されました。
大正13年に御料地が東京市に下賜され恩賜公園となりました。
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模景観はもとより施設などが我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。 台東区」
「東京名所之内 上野山内一覧之図」(三代広重 明治10年 国立国会図書館蔵)
公園に掲示されていた浮世絵の原典です。
「内国勧業博覧会之図」(小林清親 明治10年 国立国会図書館蔵)
こちらは小林清親の浮世絵です。
「東京開化狂画名所 上野公園地 小僧のひる寝」(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)
上野公園の南端・公園入口付近は「袴腰広場」と呼ばれています。
袴の腰に似ていたことが由来です。切絵図を見ると確かに人間の腰に当たります。
江戸時代から「袴腰」と称されてきました。
歌川広重は「絵本江戸土産」の中で、こう記述しています。
「昔時この所に仁王門ありけるが明和の火災に回祿せしよし 今は左右の礎のみ残る これを俗に袴腰といふ」
広重は仁王門跡のことを袴腰と言っているようです。
平成8(1996)年に上野恩賜公園内に、日本スポーツ文化賞栄誉広場が設置され、
広場には国民栄誉賞受賞者の手形が展示されています。
平成12(2000)年3月完成。作者不詳です。
蜀山人(大田南畝)は、囲碁好きだったようです。
(碑文)
「一めんの花の碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲 蜀山人」
(説明板)
「蜀山人の碑 台東区上野公園四番
一めんお花は基盤の
上野山 黒門前に
かかるしら雲 蜀山人
碑面には、大書してこの歌を刻む。ついで、蜀山人についての説明、碑建設のいきさつを、細字で刻んでいる。歌の文字は蜀山人の自筆であるという。
蜀山人は姓を大田、名を蕈、通称を直次郎といった。蜀山人はその号である。南畝・四方赤良など、別号多く、一般には大田南畝と呼ぶ。幕臣であったが、狂文・狂歌を良くし、漢学・国学を学んで博識であった。江戸文人の典型といわれ、狂歌の分野では唐衣橘洲・朱楽管江とともに、三大家と評された。文政六年(一八二三年)没。
江戸時代、上野は桜の名所であった。昭和十三年、寛永寺総門の黒門跡に、その桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首を刻み、碑が建てられた。郷土色豊かな建碑といっていい。
平成四年十一月 台東区教育委員会」
日露戦役紀念碑です。乃木希典による揮毫です。
GHQの指示により公共空間にある忠魂碑は撤去されていますが、上野公園では撤去されずに残っています。
上野公園は寛永寺の境内を公園に指定したものだから、公共空間に多くの寺社も存在しています。
上野動物園の中には寺の墓地まであります。
上野公園入口の階段の左側にアヒルの像があります。
(碑文)
「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」
(説明文)
「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地
川柳は、江戸時代に江戸で生まれた十七音の庶民文芸として今日に伝わっています。川柳の名称は、宝暦七年(一七五七)に浅草新堀端にはじまりましたが、明和二年(一七六五)七月、呉陵軒可有という人が、初代川柳評の前句付万句合の勝句(入選句)から十七音の付句のみで鑑賞でき、深い笑いのある句を選び、今日〈川柳の原点〉とも呼ばれる『誹風柳多留』を刊行しました。このことにより川柳は、〈十七音独立文芸〉として確立され、後に全国へと広がっていきました。
この付近には、『誹風柳多留』の版元・星運堂(花谷久次郎)があり、俳諧書などを刊行するかたわら、三代にわたり、『誹風柳多留』を通じて〈川柳風〉の隆盛に貢献、川柳を「江戸文芸」の一つにまで育てました。「誹風柳多留発祥の地」は「文芸川柳発祥の地」でもあります。
記念碑の「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」の句は、「木綿」を号とした『誹風柳多留』の編者・呉陵軒可有の作です。
平成二十七年八月
柳多留250年実行委員会
台東区教育委員会」
<西郷像とツン>
西郷隆盛像は、明治31(1898)年に建立されました。
発起人らは当初皇居前楠木像の広場に建立地を希望し宮内省から許可されましたが、
明治政府の立地場所として相応しくないとの意向で取り消しとなり、現在の場所に設置となりました。
隆盛像の作者は高村光雲です。推定体形は、身長約178cm・体重約110kgの巨漢でした。
西郷隆盛像の腰には、兎罠を挟んでおり、兎狩りに出かけているところが造形されています。
連れている犬は後藤貞行作(楠木正成像の馬を担当)で「ツン」です。
「ツン」は雌の洋犬だったといわれていますが(不詳)、銅像作成時には亡くなっており、
薩摩犬(雄)をモデルに銅像が造られました。
<軍服姿と髯は許されず>
西郷隆盛像の原型は、当初は陸軍大将の軍服姿で造られましたが、
明治政府の意向により、反政府のカリスマ性を無くすため、西南戦争時に多く描かれた浮世絵での軍服姿と髯は許されず、
「軍人性」を消した着流し姿に犬を連れたビジュアルに変更されました。
従兄弟の大山巌像は戦後戦犯銅像として一時撤去されましたが、西郷隆盛像は戦犯銅像とはならずに現在に至った由縁でしょう。
除幕式で糸子夫人が「あらまあ、うちの人はこんな人ではなかった」と語ったとされますが
軍服姿の銅像と思ったのが幕が開かれたらそうではなかったという庶民の声を代弁しているのでしょう。
なお、糸子夫人は除幕式に出席した記録はなく、この話の出典は不詳であり、作り話のようです。
<犬を連れて毎日8�qの散歩という治療>
西郷隆盛は脂質異常症のためドイツ人医師ホフマン(肖像画:東京大学健康と医学の博物館蔵)により、
食事制限、下剤、犬を連れて毎日8kmの散歩をすることの3つの治療法を受けていました。
(碑文)
「西郷隆盛君之偉功在人耳目不須復賛述前年
勅特追贈正三位
天恩優渥衆莫不感激故吉井友實與同志謀鑄銅像以表追慕之情
朝肯賜金イ次覺損資賛此擧者二萬五千餘人明治二十六年起工至三十年而竣乃建之上野山王臺記事由以傳後」
(碑文)
「敬天愛人
西郷隆盛と銅像の由来
西郷隆盛は文政十年(一八二七)十二月七日薩摩藩士として鹿児島治屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。若くして、薩摩藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること二回。元治元年(一八六四)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応三年(一八六七)十二月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことはあまりにも有名である。その後は、故郷に退隠したが、明治四年(一八七一)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主導的役割を果たした。然るに、明治六年六月いわゆる征韓論が閣議に上るや断乎反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治十年二月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦七ヵ月余、ついに敗れて城山に自刃した。九月二十四日、享年五十一才。そのため一時逆賊とされたが、明治二十二年二月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友美が、同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志二万五千人の醵金を得て、明治二十六年起工、明治三十年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。」
「東京名所三十六戯撰 上野山王山」(昇斎一景 明治5年)
現在の西郷隆盛銅像がある周辺一帯は、「上野山王山」と呼ばれ、江戸時代には山王権現社(山王社)がありました。
別名「桜が峯」とも呼ばれ、古くから桜の名所として知られていました。
江戸時代の上野での静かな花見とは変わって、酒に酔って騒ぎを起こす人びとが描かれています。
「絵本江戸土産 山王山眺望」(広重)
挿絵には「黒門を入りて右の方石階を昇れば山王権現の社あり 荘厳尤善美を尽せり 其地高うして崖に茶店を出す ここより見わたせば遠望神田湯島に劣らず樹立森々として涼風梢をはらひ更に夏なきが如し また雪中の眺望ここに勝るはなし」とあります。
<除幕式 明治31(1898)年12月18日>
除幕式には、総理大臣山県有朋や、勝海舟、榎本武揚、西郷従道、大山巌、東郷元帥、英国公使アーネストサトウ氏等
800余名が参加して盛大に行われました。
西郷従道内務大臣令嬢(三女)の手により、幕が開かれました。
なお、参加者に、西郷隆盛の遺族(糸子夫人等)の名前は見当たりません。
「東京名所 上野公園之景」(楊斎延 明治32年 台東区立図書館蔵)
除幕式の翌年です。すでに名所となっています。
「絵葉書 東京名所 上野公園西郷銅像」(たましん地域文化財団蔵)
「西郷隆盛愛妾別惜図」(楊洲周延 明治10年9月 都立図書館蔵)
西南戦争では西郷隆盛の愛妾「お杉」(寿喜)は、西郷に付き従って戦地へ赴き、人々の耳目を集めました。
戦局が悪化し、西郷から別れを告げられます。逸見十郎や永山矢一郎といった西郷軍の薩摩の同志たちも描かれています。
西郷隆盛は愛犬家で、十匹以上の犬を飼っていました。
愛犬「ツン」 は、西南戦争にも連れて行きました。西郷の側に犬が描かれています。
(画中説明)
「西郷隆盛東京在職中は一妾だも召抱へざりしに這回戦地へ妾お杉を伴ひしが官軍迫りてもはや軍配機を失ひ都の城の落陥近づきたればお杉を呼びて云云の由を言聞せ汝に暇を取する也無事に一生を過せよとて若干金与へしかば女は別れを惜み死なば諸共と掻口説くを傍の者に宥諭され遂に此場を落たりとかや」
「西郷隆盛・桐野利」(小林清親 明治10年4月 都立図書館蔵)
戦場に犬がいます。
「西郷隆盛像 明治十年五十五歳」(小林清親 明治10年10月 都立図書館蔵)
西郷隆盛の享年を55歳としたのは51歳の誤りです。
西郷隆盛に髯はありませんでしたが、西南戦争時に描かれた錦絵では、
軍服とともに、威厳を持たせるため、立派な髯が描かれました。
「西郷隆盛」(やまと新聞 第十七近世人物誌 月岡芳年 明治21年2月 国立国会図書館蔵)
西郷隆盛は、西南戦争で朝敵(逆臣)とされていましたが、
明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって名誉回復が行われました。
この西郷隆盛の人物誌は、名誉回復が行われる1年前に描かれています。
月岡芳年が西南戦争時に描いた軍服姿の西郷隆盛とは打って変わった人物像となっています。
西郷隆盛像が建立される明治31(1898)年のはるか前に描かれており、月岡芳年の先見の明には驚かされます。
「近世名士写真」(昭和10年 国立国会図書館蔵)
文政10年12月7日〜明治10年9月24日(1828年1月23日〜1877年9月24日)
西郷隆盛は一枚の写真も残していません。写真嫌いだったためだとか、暗殺を避けるためなど諸説あります。
有名なのは、大蔵省で印刷技術を指導していたイタリア人版画家のエドアルド・キヨッソーネが明治16(1883)年に描いた肖像画です。
大蔵省の印刷局長であった得能良介の依頼によるもので、得能は娘の清子が西郷従道に嫁いでいて、西郷隆盛とも親交が深かった人物です。
得能は、西郷の肖像が伝わらないことを遺憾として、キヨッソーネに肖像画の制作を依頼しました。
キヨッソーネは、実弟・西郷従道の目元や、従兄弟・大山巌の口元などを参考に制作したとされています。
西郷の親族や旧知の人物からアドバイスをもらい何度も修正を重ね、
完成した肖像画を見た親族は「これこそ翁(西郷隆盛)そのもの」と太鼓判を押したといいます。
日比谷図書館で開催された写真展では、キヨッソーネの肖像画には西郷従道候の「隆盛に酷似せり」の書付けが付されていました。
なお、西郷家に贈られた肖像画は、戦時中に焼失しています。
「西郷南洲遺訓」(岩波書店 1939年 国立国会図書館蔵)
西郷菊次郎は次のように語っています
「此の像は得能局長が十分父を承知して、其の監修の下に出来たのみならず、当時父を知ってい居る人に色々相談をなし、
又た当地の母などにも聞いて種々丹精して出来たのであるから、他の画像に較べて此が先づ一番宜しいと思ふ。」
「大山巌書簡渡辺千秋宛」(国立国会図書館蔵)
キヨッソーネと床次正精による西郷隆盛肖像画が同封されています。
「西郷肖像」(床次正精 明治20年 WIKIMEDIA COMMONS 鹿児島市立美術館蔵)
床次正精は薩摩藩士族で西郷とは面識があり、床次の描く西郷の顔は実物によく似ていると言われていわれています。
「エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone) 1833年1月21日〜1898年4月11日」(WIKIPEDIA COMMONS)
エドアルド・キヨッソーネは、明治の元勲や皇族の肖像画も描きました。
明治天皇は写真嫌いだったため、明治21年、宮内大臣は「密かに拝写」することをエドアルド・キヨッソーネに依頼し、
相撲を天覧していた明治天皇を御簾越しに描いて御尊影を完成させました。
明治天皇は何も知らされていませんでしたが、宮内大臣ができあがった御尊影の複写写真をおそるおそる差し出すと、
明治天皇は何も言わず、贈呈用の親署をなさったとのことです。
「明治天皇御尊影」「昭憲皇太后御尊影」(明治天皇聖徳大鑑 明治天皇御写真帖刊行会 昭11)
【鹿児島の旧蹟】
・西郷隆盛洞窟
・西郷隆盛終焉の地
・西郷隆盛銅像
【東京都の旧蹟】
・江戸開城
西郷南洲 勝海舟会見の地(芝)
・愛宕神社(勝と西郷の会談地)
・西郷隆盛屋敷跡(日本橋人形町)
・西郷隆盛留魂祠/西郷隆盛留魂詩碑/徳富蘇峰詩碑(千束)
彰義隊の戦死者を供養するために明治14(1881)年に建てられました。
西郷隆盛像の裏手にあります。
墓石には山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記されています。
(説明板)
「彰義隊の墓(台東区有形文化財) 台東区上野公園一番
江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。
正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)年十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
平成八年三月 台東区教育委員会」
(説明板)
「彰義隊の墓
十五代将軍徳川慶喜 の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷
らは、慶応四年(一八六八年)、大政奉還 をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命懇願のために同士をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊
」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦士の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
彰義隊奮戦之図
小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵と伝えられている。」
「本碑」「副碑」そして「王仁博士」の肖像が彫られた三つの碑があります。
(説明板)
「博士王仁碑 台東区上野公園一番
「古事記」などによると、王仁博士は古墳時代前半に百済国から渡来し、「論語」・「千字文」を伝えた学者であり、後に帰化したとされる。また、その子孫は文筆をもって朝廷に仕えたといわれる。
この「博士王仁碑」二基は、王仁博士顕彰会により、昭和十五(一九四○)年及び昭和十六(一九四一)年に建立された。
平成二十五年三月 台東区教育委員会」
「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑で平成17(2005)年に海老名香葉子さん(初代林家三平夫人)によって建立されました。
(説明板)
「時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)
東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。
建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
建立有志一同」
上野公園に擂鉢山古墳があります。
寛永寺創建まで、五條天神社と清水観音堂が鎮座していました。
「大仏山」が標高22m、「摺鉢山」が標高24mで、上野公園の最高地点です。
(説明板)
「摺鉢山古墳 台東区上野公園五番
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約千五百年前の前方後円形式の古墳と考えられている。
現存長七十m、後円部径四十三m、前方部幅は最大部で二十三m、後円部の道路との比高は五mである。
丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地であった。
五條天神の創立年代は不明であるが、堯恵法師は『北国紀行』のなかで、文明十九年(一四八七)に忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際、
契りきて たれかは春の
初草に 忍びの岡の 露の下萌
と、うたっている。現在、上野公園忍坂脇に鎮座。
清水観音堂は、寛永八年(一六三一)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、元禄年間(一六八八〜一七○三)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転した。
現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。
平成六年三月 台東区教育委員会」
「江戸名所図会」
江戸名所図会から「擂鉢山」部分の抜粋です。
「絵本江戸土産 山門摺鉢山花見」(広重)
山門と摺鉢山での花見が描かれています。
ライオンズクラブ寄贈のトーテムポール。
横にソメイヨシノの基準木があります。
(説明板)
「LIBERTY, INTELLIGENCE, OUR NATIONS, SAFETY
自由と知性は われらの国の安全
WE SERVE
われらは 奉仕する
このトーテムポールは我々上野ライオンズクラブの会員が手に手を取りあってつくりあげたものである。トーテムポールは昔、北米西北海岸からアラスカに至るインデアンの家の前に立っていた風変わりな高い木の柱である。その柱には彼らの信仰と制度のシンボルとして動物と人間らしいものが彫られ部族の安全と繁栄を祈願したものである。やがて19世紀後半世界各地にかかる風習が広まった。これにちなみ1964年今日、都民の憩いの場である上野恩賜公園に緑の森と動物と人間生活の結びつきを強調し交通標として都民の平和と繁栄を願ってここに恒久的な鉄筋コンクリート造りのトーテムポールの建立を見たのである。
(高さ:7.0M 翼の長さ:4.0M)
制作者:三坂耿一郎先生(日本芸術院会員) 1964.3.23
TOKYO UENO LIONA CLUB
東京上野 ライオンズクラブ」
グラント将軍は明治12(1879)年に来日しました。
8月25日の上野公園での歓迎会で、グラント将軍はローソン檜を、夫人は泰山木を記念に植えました。
その夜、明治天皇御臨席のもと上野静養軒で歓迎会が行われました。
渋沢栄一はグラント将軍夫妻の来日に当たり東京接待委員総代を務め、8月5日にグラント将軍を飛鳥山の邸宅に招待して午餐会を開催しています。
そして、8月25日の上野公園における歓迎会では御臨幸委員総代を務めています。
グラント将軍同夫人の来訪50年を記念して、昭和4(1929)年に渋沢栄一らが植樹記念碑を建立しました。
(説明板)
「グラント将軍植樹碑 台東区上野公園八番
明治十年(一八七七)から同十三年にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。同十二年八月二十五日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和四年八月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向って右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。
グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治二年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同十年まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。
平成四年十一月 台東区教育委員会」
(碑文)
「グラント将軍植樹の碑
明治十二年米国前大統領ユリシーズ・シムプスン・グラント将軍来航せらる。明治天皇勅使を遣し、軍艦を派して将軍を長崎に迎接せしめ給ひ、其入京するに及びては浜離宮に館せしめ、待つに国賓の礼を以てし、備に懇款を極め給ふ、蓋し特例なり、将軍は西暦千八百二十二年米国オハイオ州の農家に生る、南北戦争起るに及び、奮然剣を提げて北軍に投じ、力戦して殊功あり、挙げられて其総指揮官となり、騒乱を平定して南北一統の基を成し、偉勲に依りて米国陸軍の総指揮に任ぜらる、而して衆望の帰する所千八百六十八年、遂に第十八代の大統領に推され、能く戦後の国政を総攪して亦大に治績を挙げたり、千八百七十五年再任の期満つる後、夫人及末男を伴ひて世界周遊の途に上る、我邦に渡来せられたるは即ち此時にあり、将軍資性真率重厚、深く東洋の平和に意を注ぎ、我邦の内治外交につきて屡当路に進言する所あり、為に我が国運の伸張を助くるもの甚だ多しと云ふ、此年七月三日将軍の入京せらるゝや、上下挙りて熱誠に之を迎へ、尋で或は夜会を開き、或は演劇を催せしが、八月廿五日に至り府民の名を以て上野公園に車駕の臨幸を仰ぎ、将軍及夫人を招請して槍術・剣術・騎射・犬追物等を観覧に供し、還幸の後、盛宴を張りて以て大に歓迎の意を表し、此に所謂国民外交の端を啓きたり、此日将軍は記念の為め手づから此処に扁柏を植ゑ、夫人も亦玉蘭を植ゑられたり、爾来春風秋雨五十年、二樹歳と与に成育繁茂せりと雖も、人の其由来を知るもの漸く稀なり、予等親しく此盛事に与れる者深く之を憾とし、乃ち碑を建てゝ事の梗概を叙し、以て永く後人をして聖主英将遭逢の跡を偲ばしめんとす
昭和四年八月
子爵 渋沢栄一
男爵 益田孝」
(渋沢栄一伝記資料を参照しました。)
小松宮彰仁親王(1846〜1903)は、日本赤十字社の初代総裁を務めました。
明治35(1902)年の日本赤十字社設立25周年の記念として銅像建立が提案され、明治45(1912)年に建立されました。
(説明板)
「小松宮彰仁親王銅像 台東区上野公園八番
彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、仁和寺宮と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征討大将軍として参戦。ついで奥羽会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。
明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創設されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。
銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日に除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
平成八年七月 台東区教育委員会」
オランダの一等軍医ボードワン博士は、上野公園の生みの親です。
像を造る時にオランダ政府の資料が間違っていて、弟さん(駐日領事)の像となっていましたが、
平成18(2006)年10月に交換されました。誰がどういう経緯で気づいたんですかね。
(碑文)
「ボードワン博士像
オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として一八六二年から一八七一年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに一八七三年日本初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。」