【台東区】
千束
○ 鷲神社 別頁
下谷
○ 入谷鬼子母神 別頁
根岸
○ 子規庵
○ 元三島神社
○ 根岸の里
○ 旧町名由来案内
旧上根岸町
○ 八二神社 別頁
○ 御行の松不動尊
○ 根ぎし
笹乃雪 別頁
○ 根岸薬師堂 別頁
東上野
○ 下谷神社
上野公園
○ 正岡子規記念球場 別頁
○ 五條天神社 別頁
〇 上野大仏 別頁
東日暮里
○ 羽二重団子本店
○ 芋坂 別頁
浅草
○ 山谷堀公園 別頁
○ 隅田公園 別頁
○ 浅草寺新奥山
○ 駒形橋 別頁
【中央区柳橋】
○ 柳橋銘板〜正岡子規 別頁
【向島】
○ 長命寺桜もち山本や 別頁
【目黒不動尊】
○ 目黒不動と文人 別頁
【北区田端】
○ 正岡子規墓(大龍寺) 別頁
○ 田端文士村記念館 別頁
【道灌山/諏訪台通り】
○ 道灌山 別頁
○ 路面パネル 別頁
【足立区島根】
○ 鷲神社 別頁
【草加宿】
○ 正岡子規句碑 別頁
【飯坂温泉】
○ 正岡子規歌碑 別頁
【道後温泉】
○ 正岡子規像 別頁
元三島神社に、松山俳句協会建立の正岡子規句碑があります。
(碑文)
「根岸名所ノ内
木槿咲て 絵師の家問ふ 三嶋前 子規」
(碑陰)
「平成十三年三月吉日
正岡子規没後百年祭記念
松山俳句協会建立
台東区俳句人連盟協力」
<元三島神社>
(説明板)
「元三島神社御縁起
当社はご祭神に大山祇命・伊佐那岐命を頂き和足彦命・身島姫命・上津姫命・下津姫命を配祀申すものである。
例大祭はご祭神勧請の時にちなみ五月十四日十五日とする。
(但し現在交通事情により五月第二土曜、日曜とする)
元三島神社はそもそも第六十二代円融天皇の御代に日本總鎮守の称号を賜り、明治において國幣大社に列せられ、四国唯一の大社、大山祇命、大山祇神社を御本尊に頂くものである。
当社の由来はご本社大山祇神社のご分霊によるものであり、その源を弘安四年の役に発する。
すなわち弘安四年、勇将河野通有、三島水軍を率いて大山祇神社に必勝の祈を捧げて神恩加護を仰ぎ武功赫々として帰国したところ夢のなかに神のお告げを得て大山祇明神武蔵國勧請の発願を時に上野山中にあった河野氏の館にご分霊を鎮座申したことに始まったと伝わる。
後、室町の代を通じ社運の隆盛いよいよ募り江戸の代に入っては徳川家より社鎮拝領預かるが慶安三年(一六五〇)三代将軍家光の時金杉村に移転ついで宝永六年(一七〇九)社地幕府御用地となるに及び代替地に浅草小揚町を賜って再び遷座の運びとなる。
しかるに、代々金杉村に住む氏子住民から氏神様の地元遊離は誠に不都合と赤誠こもる訴えが起こり金杉根岸の村民相寄り協議の末、金杉根岸の地に熊野神社と合祀を図りこれを元三島神社と称し今日に至る。
旧社殿は明治四年の再建であるが昭和二十年、戦火で消失以後昭和二十二年造営するも老朽著しく、よって昭和五十一年四月新たに造営落成したものである。
「元三島神社社務所」」
根岸の里は上野の山蔭にあり、江戸時代から多くの文人墨客が住んでいました。
また、日本橋や京橋の大店の別荘などがありました。
鶯の名所でもありました。
<正岡子規句碑>
(碑文)
「雀より 鶯多き 根岸哉 子規」
(碑陰)
「平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区俳句人連盟 根岸の里俳句会 建立」
「江戸名所図会 根岸の里」
「呉竹の根岸の里は上野の山陰にして幽趣あるが故にや都下の遊人多くはここに隠棲す
花になく鴬 水にすむ蛙もともにこの地に産するもの其声ひとふしありて世に賞愛せられはえり」
「絵本江戸土産 根岸の里」(広重)
「東叡山の北の麓すべてここを根岸という 元より閑雅幽栖の地にて文人墨客の世を避るもの
ここに庵を結ぶも多く自然風雅の地となれり」
「江戸名所百人美女 根岸」(豊国・国久)
美女は大店の別荘で暮らす妾かもしれません。
「東京名所三十六戯撰 根岸の里」(昇齋一景 明治5(1872)年)
ホタル狩りで、夜の水路で転んでいます。虫籠が放り出され、ホタルが逃げています。
団扇で蛍を追っている女性の着物は朝顔の図柄です。
江戸時代、ホタル狩りの名所として、「落合のほたる」「谷中の蛍沢」「音無川のほたる」などが有名でした。
根岸の里もホタル狩りの名所だったのですね。
<庚申塔4基> 台東区根岸3-9-7
説明板「庚申塔」が設置されました。
左から寛文8(1668)年、元禄16(1703)年、寛文9(1668)年の造立です。
右端の施錠されている祠内は、青面金剛庚申塔が見えました。天明5(1785)年の再建です。
(説明板)
「庚申塔(台東区有形民俗文化財)
台東区根岸三丁目九番七号 根岸小学校前
庚申塔は、庚申信仰に基づいて立てられた石造物で、江戸時代以降、盛んに造立された。
庚申信仰とは、六十日に一回めぐってくる庚申の目の夜を寝ずに過ごすことで、長寿延命や無病息災を祈る信仰である。地域ごとに庚申講が組織され、庚申の晩に講員が集まって行事が行われた。区内には、六十基以上の庚申塔が現存している。
根岸小学校前には四基の庚申塔が現存する。これらの庚申塔は寛文八年(一六六八)から天明五年(一七八五)にかけて建てられたものである。うち祠内に安置される一基は、安永元年(一七七二)に造立されたが、破損等により天明五年に再建されたものである。これらはかつて荒川区との区境近くにあり、「庚申社」、「庚申堂」、「庚申塚」等と呼ばれていた(『新編武蔵風土記稿』、『東京名所図会』)。道路の拡幅等により現在地へ移された。
庚申塔は地域に根ざした人々の信仰を明らかにする貴重な資料であることから、平成十九年(二〇〇七)三月に台東区有形民俗文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
令和五年三月 台東区教育委員会」
<奉納額>
「庚申 日光山中禅寺立木観音講
猿田彦大神
観世音菩薩」
言問通りの歩道に「旧町名由来案内 旧上根岸町」が設置されています。
「雀より鶯多き根岸かな」(子規)
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 上根岸町
呉竹の根岸の里は、上野山を背景にした田園風景と清流音無川の流れる静寂の地であった。江戸時代から「根岸の里の侘び住まい」といわれ多くの文人墨客が好んで住んだ。
そのむかし、この付近には大きな池があった。そして上野山のもと(根)にあったことから、すでに室町時代には根岸と呼ばれていた。江戸時代初期、根岸は金杉村に属し、いくつかの民家が建っていた。風光明媚の地であったことから文化文政(一八○四〜一八三○)の頃には別荘地として二百戸余りになっていた。明治二十二年(一八八九)、根岸は下谷区に編入されたあとすぐに上根岸町、中根岸町、下根岸町に分けられた。
「雀より鶯多き根岸かな」
俳人正岡子規は、明治二十五年から同三十五年まで根岸に住んだ。今、その住まいは「子規庵」として残されている。 台東区」
<正岡子規句碑>
(碑文)
「薄緑 お行の松は 霞みけり 子規」
(碑陰)
「平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区俳句人連盟蕣俳句会建立」
「松一本 根岸の秋の 姿かな 正岡子規」
「青々と 冬を根岸の 一つ松 正岡子規」
不動堂と御行の松は、江戸名所図会や広重の絵にも描かれています。
「江戸名所図会 時雨岡 不動堂」
「絵本江戸土産 根岸御行の松」(広重)
「江戸名勝図会 御行の松」(広重)
<石柵寄進>
不動堂を囲む石柵には、寄進者の名前が沢山刻まれています。
画像は「根ぎし 笹の雪」の寄進です。
<御行の松>
(説明板)
「御行の松
江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ、「江戸名所図会」や広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその三代目である。
初代の松は、大正十五年に天然記念物の指定を受けた当時、高さ一三・六三m、幹の周囲四四・○九m、樹齢三五○年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし、天災や環境悪化のため昭和三年に枯死。同五年に伐採した。
二代目の松は、昭和三十一年に上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和五十一年八月、三代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土地中より掘り出して保存し不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。
御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから、別名「時雨の松」とも呼ばれた。
平成十年三月 台東区教育委員会」
<初代「御行の松」/御行松碑>
昭和3(1928)年夏に初代「御行の松」は枯死しています。
初代「御行の松」の隣りには、大きな「御行松」碑があります。
裏面には、初代御行松が枯れた経緯などが刻まれ、昭和5年と刻まれています。
<御行松不動尊之碑>
明治15年の碑です。
<4代目松>
平成30(2018)年4月、4代目の松が植えられています。
三遊亭円朝「根岸お行の松 因果塚の由来」に因んでつくられました。
<歌碑>
<不動堂>
<掲示>
(説明文)
「御行の松由来
時雨が岡「お行の松」といえば、昔は湯島天神より東何町「お行の松」と、道しるべがあったほどの江戸名所の一つで、広く世に知られたものでした。
この松については種々の伝説があり、弘法大師、又は文覚上人が此処にて修行せし事あり、因って「お行」というなどの伝えもあるが、この松、文覚上人が活躍していた700年以上のものでなく、まして弘法大師の千年以上前の物ではなく、伐採した年輪から推定して500年以上は経ていないと思われる。
根岸は昔奥州路であった由で、今から五百年前文明十八年、道興准后(聖護院宮法親王)が東北地方巡遊の砌に北陸から関東を一巡されての帰り路、浅草の石浜から上野へ向かわれる途中ある松原にさしかかられた。するとにわかに時雨が降り出したので、准后は、とある松の大木の傘を広げた様な枝の下に雨宿りをなされた。
その時
霜ののちあらはれにけり時雨をば
忍びの岡の松もかひなし
と、詠まれたという事が廻国雑記にかかれてあり、これが文献にあらわれた最古のもので、この歌から「時雨が岡」の地名が起こり、雨宿りされた松を「時雨の松」と呼ぶようになったといわれている。
天保初年の江戸名所図会に、「時雨が岡」とは、根岸の里、庚申塚といえるより三四丁、艮(東北)の方小川の傍て、一株の古松もとに不動尊の草堂あり。土人、この松を「お行の松」と号つく。一つに「時雨が松」とも呼べり、とある。按ずるに忍の岡というのは上野東叡山の旧名で、この地も東叡山の御領分ゆえに、和歌の意をとって後世に好事の人がこう名づけたものと考えられる。
又金杉村の旧い「金杉水帳」には、「大松」と、記したものがあり、これがこの松の本名かと思われる。
「お行の松」と、唱えたのは宝暦(約二百五十年前)以後の事らしい。それは御歴代の輪王寺の宮が、御一大に一度「御加行」「御続堂」と、言って百日間、毎朝、種々の御修法があって、山内にある仏宇、神祠を巡拝あらせられる例であったが、宝暦以後、何時の宮であったか御加行続堂の際に根岸の御隠殿を通って、この松の木に来たり息わせられた事があったのを、宮様の御行のお休みの松という意味で「お行の松」と称したことに由縁してかく呼ばれたと言う。
この松の下には不動堂の小さな草堂があり「新編武蔵風土記稿」によると、「弘法大師」このにて、大日不動尊の修法を行いしと、或は、康平(九百六十年前)の頃、源頼義が奥州攻めに祈願したりと又源頼朝が平家追討の為文覚上人をして行をなさしめし所と諸説あるが、いずれも前に述べたように松の樹齢と一致しないので執り難い説である。
又別説で「出羽の国湯殿山の末寺大日坊の所在せし所なる」が常州佐竹の一族、岡田左衛門なる者が、先祖の由緒ある所ゆえにとて、宝暦年中文覚上人の手彫りの一寸八分の不動尊を、石の唐柩に納めて、これを松の下にうめ、その印にとして石の不動尊をおいたと言う。
その後、文化三、寅年江府中大火の後で、一比丘尼(貞照)が、此処の土人ならびに、福生院(真言宗)主と力を合わせ、再び庵を結び不動堂を建立して、堂内へ右の石像を安置し、土中の石柩を掘り出して同所に埋めしという。
明治維新数年前に福生院は廃寺となり、不動堂は西蔵院の境外仏堂となったものであるが、その頃には老松も衰態をみせはじめ近隣の人々の憂いをあつめていた。
大正十四年六月史蹟名勝天然記念保存仮指定となり、翌十五年には天然記念物に指定された、惜しいことに昭和三年夏にはほとんど枯死してしまった。
昭和三十五年 御行の松復興奉賛会発行 お行の松由来より抜粋
御行松不動講」
すぐ近くにあるコッペパンのお店です。売り切れ早いです。
<正岡子規句碑>
(碑文)
「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉 子規」
(碑陰)
「平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区俳句人連盟皐月会建立」
「江戸名所図会 下谷稲荷明神社」
江戸名所図会に、下谷稲荷明神社が描かれています。
<下谷神社>
南参道
(説明板)
「下谷神社 台東区東上野三丁目二十九番八号
天平二年(七三○)、上野の忍ヶ岡に創建されたと伝えられる。寛永四年(一六二七)、寛永寺の建立のため山下に移された(現在の岩倉高校あたり)。しかし土地が狭く、延宝八年(一六八○)に広徳寺前通り(現在の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。
本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」・「下谷惣社」などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。
「下谷神社」と改称したのは明治五年(一八七二)である。関東大震災の後、昭和三年(一九二八)の区画整理により、東南に五十メートルほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成十二年、台東区有形文化財)。
平成十六年三月 台東区教育委員会」
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 南稲荷町
明暦三年(一六五七)の江戸大火後、江戸各地の寺院がこの付近に移転してきた。そして、唯念寺、成願寺、宗源寺、西蓮寺の各門前に町屋が形成された。この頃、唯念寺の門前町屋は、町内に稲荷神社があったので、俗に稲荷町一丁目と呼ばれていた。また、成願寺の門前町屋は稲荷町といっていた。
明治二年、これら門前町屋 は、隣接する辻番屋敷を合併して下谷稲荷町と名付けられた。稲荷神社は、現在の下谷神社である。
明治五年、下谷稲荷町は現在の浅草通りで南北でわけられるとともに、下谷江島町をあわせて、下谷南稲荷町が誕生した。その後、明治四十四年に下谷の二字をはずして南稲荷町となった。 台東区」
<寄席発祥之地>
「江戸時代寛政10年(1979)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、
素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。」
(TAITOおでかけナビより引用)
三笑亭可楽の墓は、潮江院(台東区今戸)にあります(別途記載)。
<隆栄稲荷神社>
<正岡子規句碑>
羽二重団子本店脇に、正岡子規句碑があります。
(碑文)
「芋坂も 団子も月の ゆかりかな」
(掲示)
「団子の由来
芋坂も 団子も月の ゆかりかな 子規
江戸文化開花期の文化文政の頃 遥かな荒川の風光に恵まれたこの辺り日暮しの里は音無川のせせらぎと小粋な根岸の三味の音もきこえる塵外の小天地でありました
文政二年 小店の初代庄五郎がここ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し 街道往来の人々に団子を供しておりました
この団子がきめが細かくて羽二重の様だと称され そのまま菓名となっていつしか商号も「羽二重団子」となり 創業以来今も江戸風味と面影を受け継いでおります」
<羽二重団子本店>
文政2年創業。
田山花袋書があります。昭和4年(1920)中秋 録は花袋の号。
夏目漱石「我輩は猫である」でも、羽二重団子が登場します。
食べログの和菓子・甘味処TOKYO百名店2023に選ばれています。
値段は高いのですが、落ち着いた甘さで、歴史を噛みしめて美味しいです。
<店の歴史>
・江戸期より明治22年までの茅葺の店舗。伊藤晴雨画
・明治22年より昭和17年までの木造店舗。
・昭和7年より昭和46年までの木造店舗。
・昭和46年より昭和58年までの、木造との併設ビル。
・昭和58年より平成29年までのビル。
羽二重団子の向かいに、善性寺があります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
将軍橋と芋坂(善性寺)
善性寺は日蓮宗の寺院で、長亨元年(一四八七)の開創と伝える。寛文四年(一六六四)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
宝永年間(一七○四〜一七一一)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
善性寺の向い、芋坂下には文政二年(一八一九)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
芋坂も団子も月のゆかりかな 子規
荒川区教育委員会」
<将軍橋>
浅草寺本堂西側の一画が「新奥山」として整備されており、多くの碑、像が建っています。
元禄時代の歌人・戸田茂睡の墓、社会事業に尽くした瓜生岩子女史の銅像、「喜劇王」曽我廼家五九郎の顕彰碑、
喜劇人の碑、映画弁士塚など、浅草の娯楽を支えた人びとを記念する諸碑が並んでいます。
その一画に「正岡子規句碑」があります。
(碑文)
「観音で雨に逢いけり花盛 子規」
平成13(2001)年9月19日正岡子規没後百年記念として台東区俳句人連盟が建立。